うたかたの幸いをこの手に

□梢の秋の宴
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 夏休みがあけた初日。それは朝の何気ない光景だった。隣で浩人が味噌汁をずずっと音をたてて飲んでいる。そんな彼は寝不足で据わった目の下にクマを作り、終止無言だった。俺は様子をなんとはなしに見ていたが、少々気まずくなって明後日の方向に視線を変えた。でも……、そうも言ってられない。頼むのは今しかない。俺は不意に向き直り、彼の顔を覗き込む。
「浩人……、あのさ」
「ん?」
 声をかけると、彼はご飯を頬張って口をもごもごさせながら首を傾げる。
「頼みがあるんだけど、いいかな。すごーく浩人にとって嫌なのは百も承知なんだけど」
「なに? どんなこと?」
 お茶で流し込んでから、彼は尋ねた。
 じっと見てくる視線が痛い。穴が空くほどじっと見てくるのだ。困惑気味に見つめかえすと、不意に彼は言う。
「……昌、今日は家にいたほうがいい気がする。よくわかんないけど、勘っていうより、相に近いかな。顔色が悪いっていうのもあるし」
「えっ……」
 さらに言葉を失って目を丸くした。相……。
「あっ、ゴメン。なにか言いかけてたのに遮っちゃったみたい。なんだったっけ?」
「その……、今日はちょっと調子が良くなくて……、学校行けるかわからないし、俺の分の夏休みの宿題……先生に渡してきてほしいんだ」
 躊躇いがちにそう言うと、彼は二つ返事で快諾した。申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、昨日紅蓮と話をした後、ホッとしたのか気が抜けてしまった。初めて半妖の姿をとった後のように体がひどく重かった。


 浩人を見送るため玄関先へ向かう。そこに、彼に着いて行こうとせず、こちら側へちょこんと座る物の怪がいた。どうして、護衛につかないのだろう。謄陀はいつでもどこでもついていっていたはずなのに。
「浩人、謄陀は一緒じゃないの?」
 俺はしゃがみこんで、物の怪の前足を持ち上げた。
「……い、いやあ、なんというか、その、さぁ。俺、やっぱ夏休みの宿題、終わらなかったんだよね」
 そうだろうなぁと心の中で相槌をうつ。だからこそ頼みづらかったのだ。気まずそうにあらぬ方向を見て、彼は続ける。
「それで……たぶんいろいろ……、あの、これ以上は言わせないでもらえるとたすかるんだけど」
 物の怪が諦めたように尻尾で俺の頬を撫でた。推察するに、叱られる規模は最小限にとどめたいのだろう。紅蓮に先生に叱られる姿なんて見られた日には……、とてもじゃないけど恐ろしいことが待っていると思っているようだ。清次へこのことの証人としてばっちり話してしまうだろう……と。
「けど……、じい様のことだから絶対ぬかりないと思うな」
 小声で言った俺の声は聞こえなかったらしい。時計を見て、そろそろ行かなきゃとぼやいていた。 まぁ、じい様から逃れるなんて、百年どころか千年先でも無理だ。俺がその証拠。
「そういうわけで、今日はぜーったい学校来ないでよ」
「ああ、わかったわかった。とっとと行って、怒られてこい」
「べ、別に怒られると決まったわけじゃないやい! とにかく絶対、来ないでってゆーだけ」
 不毛すぎる……。売り言葉に買い言葉、そんなやり取りがいつまでも続きそうだった。しかたなく、割って入って彼を送り出す。
「とにかく、早く帰って来てね。護衛がなくてもヒロは大丈夫なんだとは思うけど、待ってる身からすれば心配だし」
「うん、じゃあ、行ってきます」
「「いってらっしゃーい」」
 俺は物の怪の前足で手を振った。



「さて、と」
 紅蓮を持ち上げた拍子に軽く目がまわる。気づかれない程度に顔をしかめて、自室に向かった。
「なにがさてと、なんだ?」
「なんでもいいじゃん。ヒロの言うとおり今日は家にいるべくしている日だよ」
 剣呑な眼差しのまま部屋に入り、奥にしまっていたものを引っ張り出した。
 それは以前じい様にもらった狩衣だった。こんな御時世にこんなものを孫にやろうとする爺ゴコロは、はっきりいってわかろうとも思わない。けれども、これを渡したじい様はかなり満足げだったのをよく覚えている。あまりに満足そうだったので他のものがほしかっただなんて言えない、と浩人と顔を見合わせたほどに。
「これはお前たちが中学に入る祝いにもらったものじゃないか」
「……うん。今日はこれを着る。けじめだからね」
 今、着ている服に手をかけようとして視線が気になった。
「なんなのさ。あんまり熱心に見つめるなよ」
 半眼になってこっちを見る物の怪を睨んだ。
「別に熱心になんて見てない」
「いいけどねー、別に減るもんじゃないし」
 くるりと背を向けた彼をよそに、慣れた手つきで次々と袖を通し、千年前の姿をとる。
 髪を梳き、鏡を見た隣で並ぶ物の怪が鏡越しに視線をよこす。赤い目をすっと細めて遠い面影をみているようだった。俺は後ろ髪を低い位置でくくり、部屋をあとにした。
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