過去の拍手置き場

□春の日に
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 ふわりと風が吹いた。
その風に乗って薄い桃色をした花びらが目の前を通り過ぎた。
俺は少しため息をつき、春なのだと思った。
来たと思った春もこうやって桜の花を散らし、移ろう。
こんな春をこれから一体何度迎えるのだろう。

 4月になり学校が始まって、すぐの休日。
天気のいい午後だ。読書をするのにちょうどいい。
そう思って倉庫に積まれた本を取りに行こうと庭を歩いていた。
ふと視線を彷徨わせると、側にあった桜の木が花を散らせ、新芽を見せていた。
花をつけていたのはホンの一瞬だったのか、俺が気づかなかったのか、満開の姿を見ることなく散ってしまった。
それだけのことなのに、しばらくその木の前から動けなくなって、じっと見つめていた。

 落ちてしまった花びらは地面にあることがおかしなくらい綺麗で、汚れを知らないようだった。
集めて掌にのせて、もう一度宙に舞い上がらせる。はらりはらり落ちる様子は綿雪のように優しかった。

「何やってるんだ?」
 物の怪が近づいてきた。白い動物のような体をして、落ちた花びらを散らしながら走ってくる。
「もったいないと思って、まだ綺麗でしょ?」

 そう答えると、掃除が大変だと彼は悪態をついた。庭の掃除は実は神将たちがやってくれている。
平安のころと違って、いつも事件で溢れているわけではないし、そういうときは掃除をしたりもする。
で、ありがとうと言われるのを、実は期待しているようだ。

「昌がまだ遊んでいたいなら、もう少し後で片づけるか」
 そう言う横顔が可笑しくて、クスクスと笑った。
白い体に花びらがまだらに落ちて、彼は振り払うように振るい飛ばした。

「騰陀は何回桜を見たの?」
「何回もさ。もう見飽きたってくらい」
 影を落としたように笑み、紛らわせるかのように彼は桜の木に登った。
揺すってまだ残っていた桜を散らせた。ひらひらと舞い降りて、それは髪や肩、服の上に落ちていった。

「あーうっとうしい。こんな、まどろっこしいくらいなら一思いに散ってしまえ!!!」
「ちょっ…、なにすんのさ」
 やがてほとんどすべての花が落ち、彼は木から俺のそばに移り、体を摺り寄せてきた。
俺はもっくんを抱き上げ、やわらかな毛並を撫でた。

「ひどいことするなぁ。でも…」

 桜の季節が来るたび、淡い期待と諦めたような失望を感じる。
あんなに柔らかなピンクの花が、研ぎ澄まされた刃物のように何かを抉り出していくのだ。
新しい気持ちで頑張ってみようとか、今度こそうまくやろう…とか。
でも、結局いつもとおんなじかもしれないって怖くなる。
何も変われず、また次の春が来る気がする。その気持ちがわかるから、手放しに美しいと喜べない。
 嬉しいことの裏にはいつもそれと反対のことが待ち受けてる。どっちかだけを見ていられないんだ。



 倉庫に入り薄暗い光の中から本を探す。
ふと、そこに懐かしいものがあったのかもっくんはその一点を見みていた。

「それ…山海経? 懐かしいね。何年か前読み返したことがあるよ」

 それは何世代にもわたって書き写され直した書物。
書き直されるうちに変わっていったのか、少し違ってはいたけれど内容は同じだった。
じい様の蔵には本当にいろんなものが眠っている。
 数年前読み返したとき、知らないはずの記憶に押しつぶされた。
しばらく神将たちと目が合わせられなかったのだ。それに、何日も誰とも口が聞けなくなった。
読みたくなんかなかったのに、この本を読まずにはいられなくて、ずっと部屋に籠ってとりつかれたかのように読んだ。
食事も寝ることも忘れて読みふけり、一度読んだらもう二度三度と何度も読んでいた。

「あの時だよ、一時期ずっと部屋から俺が出てこなかったとき。この本は…、思い出がありすぎたからさ」

 彼は思い出したのか、そういえばと頷いた。今なら記憶に押しつぶされることなく読めるだろうか。
そう思って手に取ろうとしたけれど、思い直して手を止めた。まだ、きっと無理だ。

「千年も前だなんてな」
 物の怪はその本に手を置いて言った。蔵に光が入らないせいで、表情は見えない。

「桜の咲く季節を数えてたんだ。
こんな天気のいい日でみんなが楽しそうにしてるから、
そこにひょっこり昌浩が混ざりに来てるんじゃないかって探してみたりして。
そんなことありえるわけないのに、毎年この季節はそうやって過ごしてたんだ」

 暖かい陽だまりの中にいる昌浩の姿をすぐに思い描くことができた。
彼は本当に、周りの人の心を優しく溶かしていくような人だったから、
春の日の桜を見ているとそこにこっそり隠れていそうな気がしてしまう。
 今の俺とは違う彼。なのにその人自身の記憶を持っていることはとてもおかしな気持ちだ。

「もう昌浩はいないけど、もっくんには浩人がいるよ。
千年待った甲斐があるって思えるくらい優しくて、強くて、暖かい。昌浩みたいにね」
「そういう言い方…するな。浩人は昌浩に似てる。だが、俺はそれを求めてたわけじゃない」

 俺から見ると浩人は昌浩そのものなんじゃないかと思う。なんにでも一生懸命で、みんなを勇気づけてくれる。

「求めてるんだよ」
 きっと俺もそんな光を求めてる。時々眩しすぎる光。俺はその影でいい。
もっくんは赤い目をこちらに向けた。暗くてもその視線はしっかり俺を見ていた。

「待って求めて…やっと気づいたんだ。それだけじゃダメだ」
 暗い所から連れ出したい、そう彼は言った。別に俺はここでいいのに。
明るいところなんて眩しいから、見ているだけでいいんだ。
 だけど、

「この本を、もう一度読もうと思うんだ。でも、独りで読むのは怖いんだ。そのときは…」
 戻らない傷に目を背けず、一緒に思い出せるといい。避けていても深く穿たれていくだけなのだから。

「ああ、カッコ悪い昌浩の昔を思う存分思い出させてやる」
 俺は小さく頷いて、彼を持ち上げた。軽い小動物のような体躯はとても軽かった。
頼りないくらいに、柔らかで、暖かい生き物の体をしていた。
胸元で抱くとかすかに太陽の匂いがして、気持ちが安らいでいくのを感じた。
片手もっくんを抱え、もう片方の手で山海経の一冊目を持ち、その墨の中にいるような蔵を出た。

 目を細めたけれど、やがて眩し過ぎて目を閉じた。
散り落ちた薄い花びらが日の光を反射させて、余計に目に突き刺さるようだ。
目が慣れて、やっと一足進み、家の縁側まで歩いていく。
 濡れ縁に彼と本を置き、振り返ると、閉ざされた蔵の小さな窓が見えた。
真っ黒で塗りつぶしたような、奥行のない平面的な窓だ。
外はこんなにもあかるいのに、そこだけは闇を煮詰めているようだった。
 空虚でなんにもない。その暗さは時に同調して俺を癒してくれた懐かしい闇だった。
なのに、不意にやるせないような思いがした。
 いつかそこから出なきゃいけない。
 そんないつかが近づきつつあるのかもしれない。縁側に足を突き出して座り、ページを繰った。
暖かくて少しまだ冷たい日差しと、隣にはもっくんがいた。
 こんな優しい春の日に昌浩のことを思い出してあげなきゃ。
文字から浮かび上がる彼の姿を、陽炎のなかに見た気がする。いつだって側に居てくれるのだと、俺は彼に微笑んだ。

 

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