うたかたの幸いをこの手に

□守りたくて
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「私しかいないみたいね、これなら“アキ”もこっちにくれば良かったのに」

 そう思いながら、まず体と髪を洗った。そして湯船に長い髪が浸からないように一つにゴムでとめた。
中にも湯船はあるけれど、なんといっても露天風呂がメイン。私は戸を開けてその先へとある湯船に向かった。

 露天風呂は赤い紅葉に覆われていて、来たときにももちろん感動したのにそれ以上の感動があった。
囲まれた紅葉が湯に鏡のように映り、湯気が立ち込めて輪郭をぼやかせていた。
私はその幻想的な景色にそっと足を踏み入れ、湯に入る。

「気持ちいい」
 肩までつかり、ゆったりと足を伸ばした。
部屋に付いていた風呂も決して小さくはないと思う。
でも、この広さと景色の美しさを昌は味わえないのだと思うと少し不憫だと感じた。

「あら……」
 誰もいない、そう思っていたのは間違いみたいで、雑鬼がプカリと浮かんでいた。
あの子のことを知っている。だけど、似たような見た目ということもあり得るし。
そんなことを思っていたら、わらわらと他の雑鬼も茂みから出てきた。
「あらあら…ふふ、賑やかね」
 やはりたくさんいる雑鬼の中には私とよく話をしていた三匹がいるような気がする。

「猿鬼、一つ鬼、竜鬼?」
「!?」
 驚いて彼らは私のもとへやってきて、まじまじと見つめた。やっぱりこの子たちだ。

「どうした?」
「久しぶりだな?」
「千年ぶりってやつだな」
 一度にたくさん話しかけてくるので少しこまってしまう。

「久しぶりね、どうしてここへ」
「どうしてってお姫は知らないのか?」
「ここは妖にいい湯だからに決まってるじゃん」
「妖からうけた傷なら人間だろうと妖怪だろうと癒してもらえるんだぜ」

 そんなすごい温泉だったなんて……。
昌がここに来たのは彼が何か傷を負っているということだったのかしら。
あんまり自分のことを話そうとしないから、聞けずにいたけれど時々痛みに耐えるように目を瞑っていた。

「知らなかったわ。物知りなのね」
「それに、お姫には特別に教えてやる」
「それはね」
「それはなー」

――ここには、神様がいるんだ







 お風呂がら上がって用意された浴衣に着替え、部屋に戻ったころ、彼もちょうど出てきたところだった。
いつものクセなのか浴衣の紐がかなり下で結ばれている。
そのせいで、襟元もはだけすぎていた。これが男の子だったら見えても構わないけどね。

「違うのよ、それじゃあまるで男の子みたいじゃない。もっと上にしなきゃ」
 私はそう言って、彼の紐に手をかけた。
「うゎあ、い、いいよ。わかった、わかったから。離してって」
 彼は慌てて紐をウエストの位置に結び直す。
その間私は恥ずかしがるといけないと思って、視線を外していた。
こんなことでも慌ててしまうのだから直視してはきっと手元が狂う。

 しばらくして、突っ立ったままだった彼を見ると柱に手をついて頬を染め、少し荒い息をしていた。
「どうしたの?」
「ちょっとのぼせたみたい。調子に乗って長湯しすぎた」

 私は昌に少し横になるように勧め、備え付けの冷蔵庫から水とその冷凍庫から氷を取り出した。
彼の頬を触るとやはりかなり熱かった。

「ごめん…」
「いいの、なんでもここの温泉は妖怪から受けた傷に効くんですってね」
「なんで、それを?」
「雑鬼たちが教えてくれたのよ。“アキ”どこか怪我してたの?」

 言いたくないというように彼は氷を額と目にあてて、水を飲んだ。

「たいしたことないから」
「そう……」

 私は静かに相槌を打ってその頬を撫でた。
昌は弱い。人に弱みを見せる強さがないから。いえ、ないわけではない。
でも、独りで抱えていることの方がずっと多い気がするから。

「弱いのね」
 そんなことを思っていたら、言葉になってポロリと落ちていた。
彼は口を結んで押し黙った後で、ああそうだよと言った。痛みがそこにはあった。
まるで怪我をした小動物が虚勢を張るようにいつも強がる。
だけどそんな彼を今は誰よりも愛しいと思う。
だから、その弱さを私だけは知ってあげたかった。認めてあげたかった。

「自業自得なんだ、この傷も全部。だから、受け入れるしかないんだ」

 傷を治しにきたんでしょうに……。受け入れるというなんてどういうことかしら。
きっとまた自分のせいだって逃げるのね。

「結局…そうやって甘んじてるじゃないかしら」

 昌は一瞬傷ついた目で私を見て、すぐに泣きそうな顔で笑った。また、傷ついた……壊れやすい心。

「人に相談することもなく、ただじっと痛みに耐えるのは受け入れるとは言わないのよ」
「彰奈…?」
「きっとそれは現状維持に……甘んじてるだけなのよ」

 私の言葉が彼を刺すことはわかっていた。でも、いつまでも心は独りな彼を弄繰り回したかった。
変化には石を投じなければならないように、私は昌を揺さぶってみたかった。

 彼は肩の荷を下ろしたように、ふっと笑った。

「そんな苦言、久々に聞いたよ」
「ごめんなさい」
 昌は違うんだ、と首を振る。

「なんか、ちょっとスッキリした。自分でもそう思ってた。
けど、人にそんな風に言われるとガツンと響いたっていうか。ショックだったっていうだけ」

「誰もあなたのことを責めたりしないものね」
 誰があなたを責められるんだろう。責められはしない。同じだけ痛みを伴うことだから。

「ありがと…」
 彼はそう言って、静かに目を閉じた。私はまだ濡れた彼の髪をゆっくりと梳いて、聞こえないような声で好きよ、と呟いた。
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