うたかたの幸いをこの手に
□守りたくて
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「そこが結界の境目だから」
そうぎりぎりのところまで案内してくれた猿鬼に礼を言って、走り抜けた先には、やはりというべきだろうか妖怪がいた。
しかも想像していたよりも数が多く、強力そうだ。
「うっゎ……」
そして何よりも瘴気のようなものを感じる。早めに倒してしまわないと少しまずいことになりそうだ。
背中の傷もじわりと痛む。この穢れた空気のせいなのなか、いつもはそれほど痛まない傷がひどく痛みを主張する。
「迎えに来た」
真ん中にいた奴がどす黒いその手を俺に向け、差し出す。
「そんなことをされる筋合いはない!」
迎えに来たなんて、どういうことなんだ?
出方をうかがうように一歩後ろに下がり、そう叫んだ。
幸い、符はいつでも持ち歩くようにしていたし、そもそもそんなものがなくても妖の術が使える。
だから大丈夫、そう言い聞かせるように深呼吸した。
「お前、俺たちと一緒、来る」
訳の分からないことを言い始める妖怪。
「嫌だと言ったら…」
「連れて、帰るぅうう!!!!」
その叫びと共に一気に距離を詰められた。
俺は駆け出し、やつらの横に回る。繰り出される攻撃に備えるため五芒を描きながらその内側で新しい印を組む。
「縛!」
一度動きを止めた敵に、そのままとどめを刺してしまおうと符を取り出す。
「万魔拱服!!」
叩きつけるように力でねじ伏せ、辺りはその衝撃で生まれた煙で包まれることになった。
視界が悪くて目を凝らす。しかし、何も見えない。
なんだ、あっさり倒せたのか??
そう思った途端、背後から何かが覆いかぶさった。
「んぐ…っ!」
ドロリとした密度の濃い液体に包まれて息ができない。
もがけばもがくほど深みに嵌っていくようだった。
なんとか空気のあるところに這い上がろうとするも、それは厚く俺を阻んでいた。
(この感じ……あのときに似てる)
あのときと言うのは黄泉に体を取られていった時。まだ、関わりを断ち切れなかったのか?
ただ、今の方が状況的にはある意味ヤバいかもしれない。
力はだいぶ戻ってきたけれど、それでも一人で太刀打ちするには相手が悪い。
じい様にかけられた術のせいで力が十分に発揮できないのだ。せめて、妖狐の姿をとれたらましなんだけど……。
「ずっと待ってタ。一人になるの待ってタ」
「くそっ」
最初から俺を狙っていたのか。ここなら助けに来る人も神将もいない。
しだいに酸欠で意識が遠のく。しかし、ここでやられるわけにはいかないのだ。
そう、せめて妖狐の姿になれたら……。
じい様の術を無理矢理解くということは無茶なことは分かっている。
解くことはできてもそのあとに還ってくる反動のようなものが恐ろしい。
それがじい様なのだから尚更。それに、掛けた本人にも何かしらの負担がのしかかるかもしれない。
できるだけこの手段だけは取りたくなかったけど……。俺は残っていたありったけの力を使って、術を解いた。
束縛していた気味の悪い液体から抜け出し、息を吹き替えした俺は今度こそ蹴りをつけるため、呪を紡ぐ。
「謹請し奉る、降臨諸神諸真人、縛鬼伏邪、百鬼消除、急々如律令!!!」
妖は不気味な煙と共に姿を消した。
気配も薄れ、どこかに拡散したようだ。今度こそ一掃できたはずだ。
「うっ……さすがにちょっと」
動きすぎかも……、無茶しないようにって会うたびに色んな人に忠告される。
だけど、今回のはちょっと無茶しないと困る状況だった。
背中の痛みを感じながらも木々に手をつきながら彼女が待ってるところによろよろと歩いて行った。
「昌!」
駆け寄って、俺をつつむように彼女はきつく抱きしめた。
「そんなに心配しなくても平気だよ、ほんとに」
「うん、分かってる。……いつでも信じてるわ。だけど、心配くらいさせて、ね?」
そう寄り添う彼女からは優しい石鹸の香りがした。いま気が付いたけど、俺はベトベトのままだった。
それを気にせず抱きしめてくれる彼女の温もりが嬉しくて、されるがままにその腕の中で目を閉じた。
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ふらりふらりと人影が近づく。それは人ではなく、でも人と形のにた妖。昌だった。
傷ついた身体を受け止めるように抱きしめた。弱弱しく見えたけれど、力強い鼓動は彼そのものだった。
二言三言、言葉を交わした後彼はカクンと下を向いて、すーすーと寝息をたててしまった。
気を失ってしまったのかとドキリとした私はその穏やかな寝息を聞いて、ホッとした気持ちになった。
けれど、その寝顔が不意に険しくなる。
「一件落着ってわけじゃないんだなぁ」
「昌浩大丈夫か?」
「こういう時こそ俺たちの出番じゃん!」
「俺たちに何ができるんだよ」
「だからあれだよ!」
「あっ……!」
雑鬼たちは言い争っていたけれど、何かを閃いたらしい。
「お姫! こっち」
そうは言われても、動かないままの昌を連れて歩く力は私にはない。
竜鬼がなんとか支えようとするけれど、なかなか進むことはできない。
それでも少しずつ進み、雑鬼たちが連れて行こうとするところへたどり着いた。そこは異質なくらい清浄な空気が流れている。
穢れたものが纏わりついたままの昌の身体をそのまま持ち込むことはできない。
雑鬼たちもここからは自分たちは入れないという特別なところ。
私は側に小さな川を見つけて、ハンカチを濡らした。
汚れを少しでも落としてあげようとするけれど、全身についてしまっていて、なかなか落ちない。
拭いて、洗ってまた拭いて、それを何度も繰り返している間にも彼は苦しみでうめき声をあげていた。
――もうよい
そこからかそんな声がした。振り返っても誰もいない。
昌の体かふわりと浮いたかと思うと、彼は少し咳をして、身体に入り込んでいたヘドロを吐き出した。
それで少し楽になったようで、また穏やかな呼吸になった。
謎の声の主がそうさせるのか、彼の体はそのまま奥へと運ばれて行き、私もそれについていくことになった。
「……っ!」
その息を呑むような輝かしい光景に言葉が出なかった。目の前には真珠のように奥から輝く水面。
たちこめる湯気とその熱気で湯であることがやっとわかったけれど、それはとても他のすべてと違っていて、神聖だった。
力が抜けたように浮いていた昌の身体がその中に落とされた。
水しぶきをあげるわけでもなく、受け入れられるように彼の身体は沈んだ。
彼の身に着けていた服は湯に溶けて、再び浮き上がってきた彼の背には痛々しい傷痕があった。
あまりの痛々しさに泣き出しそうになるのをこらえて、浴衣の生地をぎゅっと握った。
「あ…ら?」
体が勝手に彼の側に引き寄せられる。見えないさっきの力と同じようにふわりと私は同じように湯に導かれていた。
私の身に着けていたものも消えてしまったけれど、昌は目を瞑ったままだったから気にならなかった。
でも、どうしてここに導かれるのだろう。あんなにも穢れたものに侵されてしまっていた。赴くことはあっても導かれるのは不思議だった。
「ここに来るやつはみんな訳があってくるからな」その言葉を思い出して、本当にそうなのかもしれないと思う。
眠ったままの彼をそっと抱き寄せてみる。その思念が、とくんと流れ込んできた。