□26:藍に溶ける
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そんなマルコの囁かれた心配を、芙蓉は意識の下で聞いていた。
瞼が重くて開かない、それが彼女の今だ。

そしてマルコの腕に抱かれ揺られている、ここがモビーディック号の中だということもわかっているのに意識の彼女が見ている世界は、藍色の海の中だ。


(ここは、どこ)


何の音もしない、静かな世界。
そこで彼女が問えば、返ってきたのは赤い瞳だった――赤いのは、血に染まったからだと気が付いたのはその目が悲しみに伏せられてからだ。


「あなたは、歌うクジラ?」


問いには答えてもらえず、伏せられてしまった瞳とその存在は藍に溶けていった。
そうすればもう何もいない、何も聞こえない。
ただ耳の奥底にこびりつくような、最期の『歌うクジラ』の歌声だけが木霊しているかのようだった。


「なんて、哀しい」


ぽつりと言葉が漏れた。
頭で何かを考えるよりも先に言葉が出るということを芙蓉は初めて体感していた。
そして涙が零れ落ちる。

これは夢の中なのになんてリアルなのだろう、と思う反面これは現実だと理解もしている。


「ここはあなたの意識の中、現実であり非現実である」


そして聞こえた声は、後ろから。
芙蓉が零した涙が、玉となって見えない地表に落ちて波紋を呼んだ。
優しい子に育ったね、と懐かしむように声が続く。


「振り向かないで、私の娘」
「どうして?」
「“海の魔女”である姿を見られたくない、私の我儘よ」
「おかあさん」
「……そう呼んでくれるのね」
「おかあさん」
「私は“海の女神”で“海の魔女”、……務めは果たさねばならない」


まるで小さい頃に母親に呼びかけるように、頼りない声が出た。
違う存在であって同じ存在であるそれを『母』と呼ぶに抵抗があったはずだったが、もうそんなことはとっくに吹き飛んでいた。

背後から聞こえる声は、悲しみに彩られた優しい女の声は、誰が聞いても子供を愛する親の声で。


「だけれど愛する人と愛する娘が逃げれるチャンスを与えたい、その罪科は私が受け止めるから」
「母さん、私はどうしたらいいの?」
「振り向かないで!――クジラの真珠を海に還しなさい、…貴女の手で」
「私の、手で」
「“私”に近づいてしまうかどうかは貴女の選択次第――貴女の存在はイレギュラー、異分子」


申し訳ないと思うのか、その事実は確かに芙蓉を悩ませ続けるもの。
異分子、と呼ばれてもそれでも今はこの世界に来れた事を彼女は後悔していない。
それでも告げられた事実は、やはり心を傷つける。


「“未来”は貴女の存在で不確定すぎるほどのものになってしまった――本来あるべき『この世界』の未来像は歪められ、新しい世界となる」
「………え?」
「貴女の選択が、全てを変えていく。貴女の行動が、変えていく。だけれどそれを受け入れなさい」


芙蓉は息を呑んだ。
そして数回深呼吸をする。

その様子に、背後で微笑む気配がして――遠ざかろうとしていることを感じて。


「母さん!」


芙蓉は凛として振り向いた。
そこには異形の姿が確かにあった。

海の色をした肌に、爛々と光る黒い瞳。
それは恐ろしい“魔女”なのだろう。
クジラの恨みに災いを呼ぶ“海の魔女”。

だけれどその目をしっかりと見据え、芙蓉は叫ぶように言った。


「私! 幸せなの!」
「……芙蓉?」
「父さんに会えた、娘と気づいてもらえた! それから大切な人に、会えた――愛する人にも」
「そう、――よかった」
「父さんに、伝言はないの?」
「………今も変わらず、ただ愛していると」


それだけ伝えて――その言葉が、遠くに響く。
そしてそれが意識が覚醒することなのだ、と芙蓉は理解して重かったはずの瞼を開けるのだった。
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