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□彼の理性
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「あの……」
「あ……こんにちは。足、まだ痛みますか?」
「あ、はい、あの……それもあるんですけど」
捻挫の翌日に平井が訪ねてきた。何となく歯切れの悪い言い方に、塩坂は疑問を抱く。
「まぁ、じゃあとりあえず足の具合を診ましょうか」
「……はい」
これもやはり本意ではないというような返事だった。
何なのかとは思いつつも、病院に来たのだから診察はするべきだろうと平井を椅子に座らせる。
「では足を出して。力をかけますから、痛かったら言ってくださいね」
「……」
ぐ、と慎重に足首を動かす。多少息を詰めてはいたが特に痛がる様子もなく、それほど腫れてもいないので安心した。
「これなら大丈夫でしょう。でも無理はせずに、運動なんかは……そうですね、あと三日間は我慢して」
「し、塩坂先生」
「……どうしました?」
「あの俺、昨日倒れた時に綿とかのケース割っちゃって、それで」
「ああ……それなら丁度新調しようとしていたので気にしなくていいですよ」
「あの、それもそうなんですけど、申し訳なかったんですけど、その……割った破片で足切っちゃって」
え、と思わず声に出していた。自宅に送り届けるまで一緒に居たのに気が付かなかった。
「大丈夫でしたか? 手当ては?」
「一応……したんですけど……」
「診ますよ、どこですか?」
「……」
「平井さん?」
どこか言いにくそうに、平井がジーンズの裾を捲ってここですと右の踝を示した。
「……少し、深いですね」
出っ張った骨の脇の柔らかな部分に、未だ乾ききらない傷があった。縫う程ではないにしても、跡は残りそうだ。これは痛かっただろう。思って、塩坂は微かな違和感を覚える。昨日、この子は少しでもそんな素振りを見せていただろうか。
(見落としてた、とか……?)
引き出しからガーゼや包帯を取り出して、沁みますよと予告してから消毒をする。
「……」
「少し、我慢してくださいね」
「……は」
「これは……また来て頂くことになるかもしれません」
「せ、せんせ……」
「どうしました?」
「……っ」
「ちょ」
ぐら、と椅子に座った平井がふらついた。持っていた器具を投げ捨てて塩坂は慌てて腕を伸ばす。床に落ちる寸前で抱きとめた平井は、苦しそうに眉を寄せていた。
「大丈夫ですか?」
「す……みません……」
カラカラと、倒れた診察用の椅子の車輪が空を切っている。
「痛かったんですか?」
「そ、うじゃなくて」
ぎゅ、と白衣の袖を掴まれて少し焦った。
「お、驚かないでくださいね……?」
「ええ」
「あの……痛い、とか、そういうのがわからなくなっちゃったんです」
「……え?」
「だ、だから、痛いって感覚が……」
「ちょっと待ってください」
(……痛覚が、麻痺した……?)
「それ……」
本当ですか。言おうとして声にならなかった。それ、だって笑えない。
「どうしてそう思うんですか? いつから? ご家族には?」
「き、昨日倒れてからです。塩坂先生、ちょっと……」
きつく肩を掴んだら平井の頬が微かに赤くなった。その変化をとらえて、塩坂は僅かに目を細める。何か、おかしい。
「手……、手を、放してもらえませんか」
そう言った声が擦れていた。
(……これ)
そんな、馬鹿な。
「すみません」
言って手を放した。ほっとしたように平井が小さく息を吐く。言葉が出なかった。
(……ああ、この子)
痛みと快楽の回路が、混線している。