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□彼の理性
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 午後七時。

 いつもより三十分早く受付時間終了のボードをドアの内側に立てて、塩坂は中から診療所を施錠した。夜の施設内には気味が悪くないとは決して言えない雰囲気が漂っているけれど、シャワー室から聞こえる水音に人の気配を感じると、こういう経験もそんなに悪くないかという気もしてくる。

 そんな気が、していたのだけれど。

「塩坂先生……」

 キィ、と高い音がして僅かに開いた脱衣所のドアから、バスタオルにくるまっているらしい平井が顔を覗かせた。

「え、……どうしたんですか……?」

 着替えには、急遽入院することになった患者等の為に置いてある病院の服を一式用意して渡しておいたはずだ。

「あの……」

 更にほんの少しドアを開けて、平井が替えの衣類を掲げて見せた。よくわからないまま受け取ろうと触れた薄い生地から、ぽたりと温い水滴が落ちる。

「……すみません、服置いといたケース、引っ繰り返しちゃって」
「いや……」

 それはいいんですけど。思って声にならなかった。

(何ですかそれ……)

 上気した頬や水の筋が残る首元、細い鎖骨。水分を含んで肌に張り付く茶色の柔らかな髪。

「……大丈夫、ですから。確かロッカーに僕の私物があったと思うので、取ってきます」

 なるべく平井を見ないようにして更衣室へと向かった。こんなことならやっぱり自宅へ連れ帰ればよかったかもしれない。それもまずい気がするけれど。

(どうして、あの子はこう、人のことを掻き乱すんだ)

 早足で歩きながら、勝手な言い分が頭の中を占めていた。彼は何も悪くない。自分ひとりが浮いたり沈んだり、そんな自覚ならとっくにある。

 ロッカーを開いて、唯一あった長袖のTシャツを手に取った。ばかばかしいと本気で思う。思うのに今から彼がこれを着るのだと考えると、またよくわからない気持ちの海に後ろから突き落とされるような心持ちがした。



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