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□流れるべき足跡
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 傘を垂直に、両手で持つ人だった。機能以外を排除したような黒い傘と、顔の上半分を隠すような姿勢は誰かの葬儀を連想させた。

 彼を見掛けるのは何日か振りだった。連日の雨の所為だ。会うのはいつも晴れか曇りの日で――雨の日に外へ出ない為だが――だから傘を持つところなど久方振りに見た。先刻から気分が悪い。

「あなたが死ねと言うのなら僕は謹んで自害致します」

 傘の下から声がした。

「……できるものか」
「今できなくとも、次はできます。次できなくとも、その次はできます。手首を切って駄目ならば毒を呷りましょう、入水致しましょう、首を括りましょう、あなたが」

 あなたが殺してくださっても構わない。それこそを望むように寄せた眉の下で知らず彼は無理な微笑をしていたが、頑なな黒に遮られて露呈することはなかった。

「……どうして、そんなことが言えるんだろうな」
「わかっております」

 ひどく冷えた気分だった。勢いの無い細い雨が降り注いでくる。こんな日は決まって憂鬱に苛まれる。

「お前にとって生きることが唯一意味を持つというのに」
「わかっております」

 彼が傷付いているのはわかっていた。その上で耐えていることも。けれどそれはお互い様だ。こちらだって、吐露してしまいたい感情くらいいくらでもある。

「……もう墓参りになど来てくれるな」

 低く零した言葉はかろうじて平常のトーンを保った。彼の持つ傘が瞬間僅かに震えて、不自然な間隔で水滴が地面に落ちた。

 ふがいなかった。責任を感じさせたことが。感じさせていることが。もう、繋がりなど無いというのに。

「生きて、さっさと幸せになりなさい」

 忘れてしまえと言えたらよかった。言えなかった。彼は何も言わず傘の柄を握りしめた。

「……どうして、そのようなことが言えるのでしょう」

 初めて聞く声音だった。

「だったら忘れさせてください、姿など見せずに。墓標に腰掛けたあなたと目が合ったあの瞬間、私は心臓が止まるかと思った。それなのに……!」
「止まってしまえばよかったのに」

 え、と零れた声が聞こえた気がした。それには答えず闇の中へと意識を放り込む。深い底へ帰りながら振り返ると、茫然とした彼の表情が遠く見えてうっすらと笑いたくなった。けれど涙の気配がすぐにそれを追い越す。

 あの日も雨が降っていた。氷雨だった。彼とこの丘で会い、唐突に私の心臓は働くことをやめた。それだけだ。

 気温が堪えたのだろう。私は彼の父ほどの歳で、独り身で、身体も丈夫な方ではなくて。だから彼はいつも私を気遣って、だから私は縋ってしまって、だから――断たなければならなかった。彼を愛する為に乗り越えなければならないものなど、気が付けば非常な程にあった。当然であるとは思うけれど。

 決別するつもりだった。身体に障るからと危惧する彼に理由は告げず、どうしてもと人気の無くなる雨天に約束を取り付けた。そんな折にこの身体は、どこまでもどうしようもない。

 死ぬならせめて一人の時がよかった。目の前で、人も呼べないような状況で、あれは仕方がなかった。仕方がないと思ってくれたならよかった。けれど彼が自責の念に駆られることなど容易であったのだろう。彼はひとりきりで弔い、それから毎日通ってくる。

 死んでいるのに死にたい気分になるなど、全く馬鹿げていると思う。

 底から外界を見上げる。彼は未だそこにいた。いつもそうだ。こうなれば今日はもう現れないと、わかっているはずなのに。

 気分が悪い。薄い膜のように雨音が世界を覆っている。瞼の裏にいつかの情景が浮かぶ。こんな天候の日にはただ暗いここであの瞬間を思い出す。何度も。指先から血の気が引いてこめかみの脈ばかりが意識を支配する。背中に冷たい汗が浮かぶ。流れる体液も変化する体温も、もう持ってはいないけれど。

 雨の日に会うことなど、あの日から一度も無かった。それなのに彼は現れた。闇の中で、怯えて自分で自分を抱き締めた翌日、雨の止んだ大地に微かに残った足跡にそれを知る。そしてまた彼は現れた。

 頑なに彼が自分にこだわるから、思い通りにならない現実にまるで憎み合っているみたいになってしまった。愛しているだけなのに。通じ合えることを願っているだけなのに。それすらももう、口に出してはいけないとわかってはいるけれど。

「……どうか、もう」

 もう、彼のことを忘れてくれ。困らせる為に留まったなどと思いたくはない。幸せになれと、言えたのだから。

「どうか」

 明日にはこの身が、消えて無くなっているように。




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