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□ずるいおとな
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来たのなら逃がさない。いくらか低い位置にある頭の両脇に手をつきながら思う。扉を背にして、彼は追い詰められたような顔をした。睨めつけてくる水分量の増した上目遣い。薄く笑いたいような気分になって、努めて真摯な顔をつくる。目が大きい。
「……言っとくけど、僕は」
焦ってるのかな、と思う。いつもより少しだけ落ち着かない喋り方。カッターで切ったような痕のある指先。
「女の子が好きなんでしょ? 知ってますよ」
「そ、……れならいいけど。僕は女の子が好きだから」
「うん」
「だから」
「わかってますって。ほら、目ぇ閉じて」
繰り返されたやり取り。そんなことでは怯まない。怯んであげない。思いながら、まだ何か言いたそうに開きかけた唇を塞ぐ。女の子が好きなんて、言われなくてもそれが大多数って前提があるんだからいいのに。いいんだよ。どこかが軋んだような嫌な気配は、いつも通り気が付かない振りでやり過ごす。
「あなたが女の子を好きなことなんて当たり前じゃないですか。大丈夫ですよ。俺はちゃんと理解してます。俺が、あなたの寂しさにつけ込んでるだけだってこと」
「そ……」
そんなこと言うなよ。勝手に引き継いだ言葉。妄想。そんなん言うくらいならもうやめてよ。それがわかっててなんでこんなことするの。多分大体正解。
押し付けて離すだけの口づけに、彼の目元は容易く潤む。
「そんな不安そうな顔しないで。あなたは流されてるだけで、そんなのちゃんとわかってるから。あなたが俺のこと恋愛対象として考えられないことも、いいんです。申し訳なさも感じないで」
何度も何度も何度も、何度も繰り返してきた言葉。だから拒絶しないで、というのは、半ば洗脳のように染み込ませてきた思惑。
軽蔑したっていいのに、あなたは濁して曖昧に先延ばすだけだったから何だか、駄目になってしまったみたいで。
「あなたは被害者ですよ。仕事でもプライベートでも、どうでもよくない位置付けにいる俺に強要されて断れなくて好きにされて。本当は嫌でたまらなくて、抵抗だってしたいんでしょう。――ごめんね」
たまに考える。あなたはずるい。被害者ってシェルターを利用して、安全な立場から無理矢理でも与えられるものを享受してる。でも咎めない。咎められるような立場にない。咎める必要性も感じていない。何でもいい。その目に映るなら、自分のしてることが最低だってわかってても最高。
「ま、っ」
怯えと迷いと不安と諦めとあとなんか色々。保健室のベッドに組み敷いたあなたのスーツから覗くあれこれ。指先から滲む血。怯えの割合が増えた。
「……や」
「優しくしてほしい?」
馴染んだやり取り。そう思っているのはこっちだけ。そんな暗い思考は白衣と一緒に投げ捨てる。床に落ちる乾いた音。
「ひどくしないで」
ぐっと飲み込んでから震える唇で強がる。いつもそう。その方がひどくしたくなるのに。繰り返した時間の上に立ちながら、そんなことにも気付いていないみたいに。
「……しませんよ。痛くしないし、怖いこともしない。しないから」
今だけでいいから、こっちを見て。
だって駄目なことなんてしてないでしょう? 気持ちいいだけなら深く考えなくて済むでしょう? あなたが傷付く要素なんてひとつも無いでしょう?
駄目なのはこの、俺の気持ちだけでしょう?
「ごめんね」
「……いいよ、もう」
「ごめんなさい」
言ったら遠慮がちに袖を引かれて、その仕草にこの人ほんとに年上かなぁとか考えてたら反射みたいに目を細められた。彼の頬に一筋。
「……大丈夫?」
伸びてきた手に目元を拭われた。眼下の彼にまた水滴が落ちる。
「大丈夫だから、やめて」
最低だ。最低。仕向けたのは自分なのに。思い通りに運んだのに。彼は何も、悪くないのに。
「手当てしましょう」
しゃくりあげる背中を、彼はずっとさすっていた。