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□最後の日
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「それでは、明朝はいつもより半刻ほど早く参りますので」
「……ああ」

 ゆらりと、壁に浮かぶ二人の影が不規則に揺れる。仄暗い部屋の中で、主人は通常通りの微笑が浮かぶ執事の口元からほとんど意識せずに視線をそらした。

「何か?」
「いや……」
「休まれないと明日の式に障りますよ」
「ああ」

 ぼんやりと空を見つめる俯き気味の横顔に、執事はひとつため息をつく。

「そんな顔をされていては、お相手様が不憫です」
「っ、お前が」

 言いかけて、やめた。背中からベッドに沈むと柔らかくて鈍い音がした。

「……休む。出ていけ」

 横になった主人の肩までシーツを掛けて、踵を返す寸前、執事は窓を向いた細い肩が微かに揺れるのを見た。

「おい」
「はい」
「私は間違っているか」
「……失礼ながら」

 身体を向け直し、淡く照らされた主人の髪を見つめながら執事は口を開く。

「私は旦那様に言及できるような立場にありませんので」

 ベッド脇の棚に燭台を置いて、執事が背を屈めた。知らず枕を握りしめていた手を両手で丁寧に解かれて、シーツを掛け直される。

「お休みになられた方がいいですよ」
「……そこにいろ」
「はい」

 黙って、彼は傍らに立つ。それは明日を境に環境が変動していこうと変わらないはずで、変わらないからこそ、何か暗いものを主人の中に去来させていた。

「おい」
「寝付けませんか?」
「いや、もういい。戻れ」
「……失礼ですが」

 乾いた布の擦れる、ごく小さな音がする。

「旦那様は本当に、ぎりぎりまで我慢なさる」

 柔らかい感触が目元に触れて、仄かな洗剤の香りにハンカチをあてられたのだと気が付いた。

「泣くことないでしょう」
「泣いてない」

 苦笑する執事の手を制し、上半身だけ起き上がる。目元に落ちた前髪を直そうと伸ばされた手を取り、指を絡めた。

「火を――」
「ええ」

 執事が棚の上に置いていた燭台に息を吹きかけ、月明かりの差し込む室内に薄く煙が漂った。

「ここに来い」
「はい」

 隣を示すと、執事はベッドの端に腰掛けた。薄明かりの中でそっと寄り添い首筋に唇を押し当てると、微笑を崩さないままの彼に、少しだけ困ったように控えめに肩を掴まれた。

「旦那様」
「いい」
「明日に障りますよ」
「今だけでいいんだ」

 絞り出すようにして音に乗せた言葉は、少し震えてしまった気がする。

「……命令だ」

 尚も肩に置かれた手に、今度こそ声は頼りなく揺れた。逡巡するように動かないでいた執事はやがて主人の肩から手を離し、手袋を外した。それから唇の端に、微笑とも苦笑ともつかない笑みを乗せる。

「……困った方だ」

 狭められた眉間に、遠ざかっていた涙の気配が戻ってくる。その危うい感覚に主人は固く目を閉じる。

「旦那様」

 頬にひとつ、キスをされた。

「どうか泣かないで――悲しまないでください」
「……悲しむなんて」
「おこがましいのは承知です。けれどすぐ我慢なさるでしょう。あなたの未来には幸福しかない、差し伸べられた手を取ってもいい。あなたはもう求めて、享受していい」

 求める――としたら、何をだ。我慢なんてしていない。しているとしたらひとつしか思い当たらない。それを求めれば手に入れられるのか。

「……私は、お前のことを」

 言いかけて、遮られた。静かに唇を離した執事が薄く笑って、主人の前髪をかきあげる。

「仰る相手が違いますよ」

 そうじゃないことはわかっていた。けれどひどい。我慢するなと言っておきながら言葉を飲み込ませて、自分の方が苦しいような顔をする。なんてひどい。これでは何か、思い違いをしてしまう。

「……お前」
「そんな顔をなさらないでください」

 お前こそ、とは言えなかった。自分が、彼が、縛られているものについてもう幾度となく考えてきた。そうして進んだ道だ。陥ったとは思わない。それでも、どうしようもない想いはある。報われない、やるせない、行き場の無い。

「家の誇りや維持や継承が私のなすべき全てだ。そこに私のレーゾンデートルの全てが」

 わかっている。わかっている。今、感情に溺れて言葉に詰まってしまったことは紛れもない失態だ。明日からはそんな油断も、見せるとしたらその相手は。

「……わかっている」

 だからもう、今日で最後に。

 執事の背中に腕をまわして、きつく抱き締めた。縋り付くみたいな格好になってしまったけれど構っていられなかった。口を開いては閉じて、音に乗せられない言葉ばかりが吐息に消えた。

 自分だけが知っていればいい。伝える必要は無い。わかっているからやりきれない。

「旦那様、私は」

 言いかけて、続きを紡ぐはずの唇は首筋に押し付けられた。押し黙ってしまった彼はもはや何も口にしないだろう。

「……何も考えなくていい」

 その後が知りたいのに。主従関係よりも不確かで曖昧な、そんなものが欲しいのに。

「旦那様」

 堪えるような、どこかが痛むような声で言って、彼は主人の手を取った。忠誠を誓うようにされた指への口づけに、主人も執事の手を取る。

「痛っ……」
「手袋をしていないお前が悪い」

 仕返しのように笑って、薬指に淡い痕を残した。内緒話みたいに顔を見合わせて、けれどお互い上手くは笑えていなかった。

「とても、幸福な妄想をしていた」
「お聞きしても……?」

 この屋敷でお前と二人で生きて、そして死にたかった。お前の存在だけがある完全な閉じ箱の中で、幸福な終わりを共有したかった。

「泣いてらっしゃるんですか?」
「いや」

 執事の手を引いて頬に触れさせる。その上から自分の手を重ねると確かな体温が冷えた肌に沁みてきた。

「今、この屋敷に誰かが火を放たないかと」

 瞬きをすると、こめかみに冷たい感触が流れていった。聞いた執事は微かに笑って、零れた涙を唇で掬った。

「私も先刻考えました」

 そうして二人で笑っていた。いつまでも。そう願いながら、夜明けまでの時間をじゃれ合ってごまかし合ってそして眠った。

 家族になれない。子供がもてない。未来の話をすることも共に朝を迎えることも。それでも。

「明日から、また」

 微笑を返した執事の腕の中、明日からはこの腕から享受してきたあらゆるものに手を伸ばすことができなくなるのだと考える。何もかもを与える立場になるのだと。そしてその代わりに受け取るものと、今あるものを比べはしないだろうかと。

「もうお休みになって」

 この幸福にいつの日か耐え難い程、胸が疼きはしないかと。




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