short

□うたかた
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 コポ、と。水中で空気の動くその音が、やけに耳についたのを覚えている。翻った色彩が視界の端で揺れていた。延々、延々と。

「……先生」
「ん、ああ、聞いている」

 注目するよう求められて、僅かに捻っていた首を戻す。咎めるような声の彼はここのところ担当に付いてもらっている新人編集者で、なかなか有望な人材らしい。些か真面目が過ぎるのは美点であるとしておく。

「趣味が魚なのも結構ですが」
「魚が好きな訳じゃない」

 そしてクマノミだ、と言おうとしてやめた。文芸誌の印刷出版を控えている今は繁忙期らしく、新人とは言え修羅場に生きる人間に不用意な発言をするものではない。

「今日は、君の上司は」
「風邪だそうです」
「珍しいね」
「疲れが出たのではないかと。出勤するつもりではいたみたいなんですが」
「ああ……彼は少し休んだ方がいい。君も、ご苦労様」
「いえ、仕事ですから」
「ふ」
「……何か」
「いや」

 思わず零れた笑いに怪訝な目をされた。すぐに消したものの、彼はどうもこちらを信用していない節がある。突っかかってくるのは若さ故のことだろうと思いかけて、十も違わないのだと気が付いた。

「では、近々また伺いますので」
「ああ。しかし心配せずともやっておくのに」
「そう言って先月だって脱走なさったでしょう」
「脱走はしていない。居留守だ」
「変わりませんよ。繰り返すようですが電話は繋げておいてください、電気も点けて。息抜きが悪いとは申しませんが、少しかかりきりの感があります」

 生き物は大変なんですよ、と詰るように言われて何だか奇妙に面白かった。今度は素直に零した破顔に、彼はやはり難しい顔をしたけれど。

「うん。悪いね」

 結局子供をあやすようないつもの態度に落ち着いて、微妙に気を立てたままの彼を見送った。今回はさすがに大人しく原稿に向かおうと、パソコンを置いたままの寝室へと向かう。

 リビングを通り抜けようとして、足を止めた。

「……今日も美人だ」

 呟いて水槽を撫でる。指先に冷えた感触が伝わって、呼応するようにオレンジ色の可憐がひらりと不規則な動きを見せた。

「仕事をしてくる。一段落したら食事にしよう」

 偏執であるとは思う。自責したことは無い。もうずっと、自分の内から引きずり出して文字で紡ぐ物語と水槽の中の観賞魚が、世界の大体だ。



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