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□希望の味
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 一拍置いたのち、まぁ、なんということだろうかと。焦った。物凄く焦った。けれど焦ったところでどうにもなるまい。そう冷静に考える自分に気が付いて、それでやっと本当に落ち着いた。いや、落ち着いてはいないのだけれど。

 ともかく立ち上がって砂を払い一歩踏み出す。今はもう更地になっているが、近くに公園があったはずだ。

 とんでもないことだ。先ほど通報されそうになったことではない。通報しようとしたのが自分だったことにはまぁ驚いた。それよりもまず自分が居た場所がおかしい。自室。

 いつものように眠り、目覚め、仕事用のスラックスに脚を通したところで目眩がした。羽織っていたシャツを何とか押し込み、ファスナーを上げるだけの気力は無かった。膝に手をつき、ようやく治まったところで顔を上げると、妙に懐かしい部屋に居て、今まさにベッドから起きようとしていた幼い私と目が合った。数瞬の静止。

 叫び出さんとする彼(私だ)に左手の手の平を見せ「わかっている」と言いつつ右手でファスナーを上げる一連の速きこと風の如し。そういえば昔こんなことがあったなと今更思い出しながら、ひらりと窓から脱出を計った私は四十代半ばである。落ちた。頼りにしていた庭の木がこの頃まだ一階と二階の間程度にしか育っていないことを失念していた。そして状況は冒頭へと戻る。

 結婚する際に自宅に手を入れ、二階に二つあった部屋を繋げて夫婦の寝室にした。それが丁度、昔の自室の位置にあたる。

 タイムスリップというやつである。先の単語を口にする為にたっぷり五秒は躊躇ったことを明記しておく。何しろ私はうんざりしているのだ、何という特徴も無い四十過ぎの中年のタイムスリップなど何のドラマが生まれよう。もはや病気だ。病院へ行きたい。しかし今の私には保険証が無い。もっと言うと財布も無い。あるのは右のポケットに禁煙中のはずの煙草とライターと携帯灰皿、左に数個の飴玉である。飴玉は昨夜、帰宅してすぐに妻がくれた。私が禁煙中だからだ。

 彼女は常に控え目な質で、そこが気に入って一緒になった。煙草が嫌いらしく、けれど直接言われたことは無い。ただリビングで一服しているとさり気なく窓を開けているし、ベランダに出れば洗濯物をしまわれる。悪いのは利の無い煙草を吸っている私なのだが、まったくよくできた妻である。

 さて、話を戻す。タイムスリップ。四十男のタイムスリップ。場合によっては若く見られるが、それでも精々三十代後半だ。後半と言っても四十に届くかどうかという具合である。こんなに色気の無いファンタジーには私が一番ぐったりしている。中年がタイムスリップする映画も無くはなかった気がするが、行き先は人類の生存が化け物に脅かされている未来であったし、中年は無能ではなかった。頼もしい相棒も美女も居た。と、自分の置かれている状況について改めて考えてみる。場所は自室(を追い出された末に公園のベンチ)、時代は過去。おそらくは二十五か三十年ほど前だろう。過去というものは、定説通りであるならば他人と接触するようなことはしてはならないはずだ。そうすると煙草があるのはこの場合最高の幸福である。携帯灰皿だってあるのだ、まだ販売されていないであろう銘柄の吸い殻を残すようなヘマはしない。

 一服、深く吸い付けた。肺胞が粘っこい煙に冒されていく感覚がする。感覚だけである。実際は知らない。駄目な感じの充足感が血液に溶けて身体中に巡っている。ああ、いい。苦味こそ人生の甘美である。というのを上司が言っていたが、少なくとも私は煙草の味が好きではない。においか。苦い記憶が時を経て色濃く鮮やかな思い出となるのなら、それを甘美とも言うのかもしれないけれど。

 かすかに煙草のにおいがしていた。ホープだ。高校の頃である。同級生から、ある時を境に薄く苦味のあるにおいが漂うようになった。縁の黒い眼鏡を掛けて、休み時間にはいつも本を読んでいるような生徒だった。笑い方も困り方も、何もかもが控え目だった。私は彼が好きだった。

 ふー、と長く細い煙を吐き出す。何がいいのかわからないまま、喫煙歴はじき二十五年になる。本数こそ少ないものの、もはや身体の内側がまっさらに戻ることは絶対に無いだろう。子供も無く妻だけを残すことは気掛かりだけれど、私はきっと人よりも早く逝く。それをもう長い間望んでいたような気がしていた。

「あの、灰、落ちますよ」

 ふっと顔に掛かった影に、背後を見上げる。しばし、言葉を失った。

 回り込んできてすとんとベンチに座った彼は、記憶の中よりも若干あどけない顔をしていた。

「……君、学校は」
「まだ時間があるんです。毎朝ここで本を読んでから行くのが日課で」

 日課、と言う割に座ったまま彼はぼんやりと園内を眺めているだけだった。固定された視線が目の前の情景に向いているのかもわからない。思春期らしく、彼もまたあの頃の私の恋心よろしく何かを抱えているのかもしれない。そんな単純なことにも思い至れないような幼さだった。今この歳になってようやく、彼の鬱屈に触れたような。

「あなたは?」
「……同じだよ。一服してから、じき立つさ」
「煙草、お好きなんですか?」

 彼の目の中に何かを見つけた。何か。いつかの頃、私が焦がれて止まなかったもの。彼はこれに思い悩んでいたのかもしれない。立場や歳や外見や、そんなことでこうも容易く眼前に差し出されるとは、いやはや。

「好きではないな」
「美味しくないんです?」
「美味くはないね」
「じゃあ、どうして」
「さて、どうしてだろう」

 存外、胸中はざわつかないものだ。甘美などとは程遠く、しかしかすかに疼くような。その感覚を誤魔化すように笑うだけが、時を経てできるようになったことらしい。

「君にもいつかわかるさ」
「いつか……は、いつ来るのでしょう」
「いつかはいつかだ。少なくとも君はまだこんなものの味を知る歳ではないよ。さぁ、そろそろ行きなさい」

 ぽんと頭に手を乗せて、離した。黒い髪は見た目より柔らかく、こんなに頼りないものだったろうかと郷愁に少し引き止められる思いがした。

「ひとつだけ」

 立ち上がった彼がぽつりと零す。声量もやはり控えめだった。

「うん」
「銘柄は」

 そこでふと思い至る。合点がいくとはこういうことかと、とんでもないなぁと、何でもないなぁと。実にたわいの無いことであった。苦い笑みが零れる。

「ホープ」

 過去の自分に甘美の種を植え付ける為、私はその嘘を口にした。




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