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□呪縛
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 慣れない部屋、と思っていたのも随分と前の話だ。何度通っても品のある調度品の手入れが疎かになっていたことは一度も無い。立ったまま見下ろしたソファは一人分の重みで柔らかに沈んでいる。

 多分、ちょっとおかしい人だ。

「傘音……」
「……社長は、どうして二人の時に僕をそう呼ぶんです」
「皆の前で名前を呼んだら傘音が驚くだろう? そんな傘音を見せたくない。おいで傘音……おいで、ほら立っていないで」
「失礼ですが、僕は社長の考えていらっしゃることが今ひとつ理解できません」
「傘音が、自宅は嫌だと言ったんだろう? だから私の家で会うことにしている」
「そうではなく」

 いつもの応酬にため息をつく。来てくれてありがとう、とはにかむ彼の目元は数カ月前よりもずっと血色がいい。

 眠れない、と独り言のようなその言葉を聞いたのはタクシーの中だった。

「社長のことを慕っている部下は沢山います。それこそ、恋愛感情を持っている者だって沢山」
「傘音は私が嫌い?」
「……そういう話ではなく」
「そうか、よかった。食事にしようね。すぐ作るよ」

 あれから週末になると彼は自分を連れ帰る。初めて相乗りした車内で、眠れないから抱き枕になってくれと、そう言った声の震えにとっさに反論ができなかった。今思えば彼の哀願は、せめて、という意味合いが強かったらしいと思い至る。

 上質なベッドで抱き締められて眠るだけの無益な週末を重ねる度、彼の偏執は強まっているように感じられた。一緒に住もうという誘いの返事を、もうずっと濁している。

「傘音、よかったらシャワーを浴びておいで。その間に作っておくから。ああ、昨日桃を買ったんだ。それも切ろうね」

 促されるまま浴室に向かう。ぴったりと寄り添うように彼がついてきて、毎度のことながら頭の中身を少し心配した。形容し難い感情からくる溜め息は長らく肺に留まり続けている。

 浴室から出ると、いつしか置かれるようになった自分用の衣類が神経質なほどきっちりと畳まれて脱衣所に用意されていた。黙ってそれを着込む。

 キッチンからは包丁を扱う硬質な音が聞こえた。

「……桃」
「うん。傘音は桃が好きだから」

 でもちょっと柔らかくてね、もう少し青いものを探したんだけど。微細な嗜好まで把握しているらしい彼は苦笑と共に言って、透明な容器に切った果実を盛る。さわりとかすかに感情が波立つ気配。

 一切れ、瑞々しいそれを指先で摘む。まったく怪訝な顔もせずにいる彼の口元へ持っていくと従順に唇を開いた。苛立つ。

「傘音、苦しいよ」

 押し込まれた果実を丁寧に咀嚼し嚥下した後、はにかむように笑った彼は確かに嬉しそうだった。

(僕じゃない)

「……僕はおかしくない」

 零れた言葉に無垢な目が向けられる。僕がおかしいんじゃない。彼がおかしいから、ちょっとあてられているだけだ。大丈夫、大丈夫。僕はおかしくない。

「傘音はおかしくないよ。傘音におかしいところなんて無い。傘音、綺麗だ。傘音……」

 伸ばされた腕を拒絶せずにいると、心底幸福そうに吐息で笑った彼に抱き締められた。濡れた手が髪を撫でる。空気に甘さが滲んでいる――桃の匂いだ。

「お願いがあるんですけど」

 彼の肩に押し付けられている唇からはくぐもった声が出た。呼吸が苦しい。

「蹴らせてください」
「ああ、ええと、うん」

 緩められた腕から抜け出す。抵抗もせずにリビングへと向かった彼は床に座って笑顔でこちらを見た。

「こうかな」
「横になって」

 言い終わらずに胸を蹴ると目が合ったまま背中から倒れ込む。横向きになったところで続けざまに腹部に打ち込むと受け身を取ろうともしない彼は派手に咳き込んだ。募る焦燥。

「ああ、ぁ、傘音、かさ、っね」
「舌噛みますよ。黙って」
「ぅ……」
「そう」

 零れる短い悲鳴と恍惚の声。繰り返される自分の名前。

「あなたは」

 言葉は続かず、止まった動きを追って静寂が落ちる。時折むせる彼の声が遠い。

 あなたは誰を見ているんだ。僕はあなたが求める僕から変わってしまった。僕は。

「僕は、もう、駄目です」
「……傘音?」

 緩慢な動きで起き上がった彼の目元がわずかに滲んでいる。へたり込むと頬を両手で包まれた。目が合う。

「駄目じゃないよ、傘音。泣かないで」
「すみません、社長。すみません」
「謝らないでいいんだ、どうしたの、傘音。何かあった?」
「すみません、もう、もう駄目です、もう」
「傘音」
「もう」

 あなたが見ていたのは、あなたを見ていない僕だったのに。




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