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□硝子ケヱス
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「こちらを」

 ――差し出された透明はどこまでも深く、なおも唇から零れ落ちる欠片とかち合って澄みきった高い音を立てた。呼び止めた声の主を振り返ると、その刹那、揺れた闇に薄甘さが匂い立つ。
 いつか訪れた地上の郷に生える、柔らかな果実の香だった。
「……見ない顔だね」
「先刻生まれました」
「きみは皆のようにしなくていいの」
「わたくしは髪の色が強いので」
 そう言う間にも小さな口から宝石は溢れ、すでに目一杯の薄い手には乗りきらずに落ちる。
 そうか、と口の中で呟いた。

 果ての無い闇また闇、けれど点在する光にぼんやりと映し出される空間はいつだって息が詰まる。辟易する理由は自然の摂理の中にある。そこから一時でも離れられるのなら有難いことだ。
「――助かるよ」
 私情をたっぷりと込めた言葉に、ああ、と彼は微笑んだ。
「はじめから屑でないことなど稀ですものね。上げた産声がそのまま形になるだなんて喜ばしいこと」
 往々にして、彼らのはじめての声は使い物にならない。輝きの薄い唇から零れる消し炭のような破片は、広い闇の只中に打ち捨てるより他は無い。
 差し出された手の中、澄みきったこれが初物だと言うのなら相当優秀だ。――とは言えそのことに言及したわけではない。
 都合よく解釈してくれた大きな赤子に笑みを返す。生まれつき数億光年の英知を手にしている彼らには、けれど今ひとつ感情が追いついていない感があった。

 声が聞こえる。
 甘い、熟れすぎた果実のような――噎せ返るほどの。
 ――ああ、おにいさま、ああ……。
 絡み合いもつれる、それは平常に過ぎない。いくつもの煌めきがそこかしこで気怠く舞う。
自力で煌めくことの難しい星々は生まれ落ちた瞬間から交わりを繰り返し、他に触発されることで光の濃度を増していく。そうしてはじめてまっとうな――有益な星になる。
 本能以外の理由を持たないその光景を、もう何度となく目にしてきていた。

 奇特な星と出会ってからしばらく、体内の不快なざわつきはいくらか和らいでいる。
 清廉とは真逆の場所に棲む星々。彼らと対する時に感じる、腐った水の中に放り込まれているような錯覚。本能のまま光を貪る彼らに罪の無いことはわかってはいるけれど――けれど、彼は違う。彼はまっさらだ。それを思えば胸中はいくらか凪ぐ。
 未だ侮蔑の目は向けこそすれ、淀んだにおいのするまばゆい星々を砕いてまわることもしていない。
「――きみはなんて綺麗なんだろう」
 真情は唇の端から惜しみなく零れ落ちる。思うまま口にした言葉に彼が微笑む。称賛を認知してふわりと笑った彼が無垢な、無知な目を細めた。

 生まれては燃え尽きてゆく彼らの言葉は煌めきとなって溢れ、神獣がそれを地上に撒く。そうして大地をつくることは永い、永い営みだった。星の一生は短く、地上までは造り出した宝石をいくらも運べない。
 だから神獣として役目を与えられた。目覚めた時から他に辿れる道も無く――この闇にただ、不本意な使命だけを携えて。

「……きみの、髪が好きだな」
「好きですか」
「好きだ」
「それは、美しいから」
 会話は大体において要領を得ない。けれど彼は英知の只中にいる。彼が美しいことは彼にとって単なる事実として存在する。微笑みを向ければふわりと笑う。清らかな彼は救いだ。
「ぼくはきみの外見に惹かれたわけではないよ」
「そうですか」
 細い声が響く。波のように、昇る泡のように。抑揚の無い声から感情は滲まない。
「美しくあらずとも、好きですか」
「ううん、そうだな」
 しばし言い淀む。辺りに散らばった細かな宝石が、淡い光を発している。
「きみの美しさを形づくる一端が、きみの髪の鮮やかさだから」
「そうですか」
 納得した口ぶりのまま、よくわからないような顔をした。
 その時はじめて、感情を見た。

 予感はあった。
 草木が肢体を伸ばすように、砂に水が染み込むように、彼は日に日に豊かになっていたから。目元は浮かされ蕩け、淡い頬は恋にたゆたう少女のそれだった。

 その日、それはすべてを台無しにした。

「わたくしの……わたくしの清白をどうか受け取ってくださいませ」
 伏せられた睫毛の先がかすかに震える。奏でられた金糸のように、完璧な美しさでもって。
「清白?」
 嫌な、気配がする。
「かような心持ちは初めてのことです。どうかわたくしの身体を思うままに、その身でお好きに」
「――」
 何を、と無意識のうちに零れた声は怯えきったように掠れていた。詰めていた息をどうにか吐き出し、一拍置いて努めて平坦な声を出す。動揺が振り切れたようにそれは多分に冷えた響きを含んだ。
「……何を言っているのかよくわからないな」
「しん」
「またね」
 カッと空を切る蹄の音。背中に受けた声は瞬間遠くなる。噛み締めた奥歯が嫌な音を立てた。脳が熱い。

 ――神聖を荒らしたいなんて誰が言った。

 どうしようもないことだ。自分が一番わかる。触れて絡めて奪って、奪えたとして、彼は一層煌めくだろう。煌めきの、その代償をこそ求めてしまう。
 眩暈がするほどの愛しさは容易に変貌する。
 自分の真情は取り返しのつかないようにできている。奪取は自分にすら許せない。そんな選択肢はあの煌めきに無い。
「……いいよ、そういうの」
 もう、いい、のに。

 きみと融けてしまえたらどんなにいいだろう。一個のものになって、ぼくはきみで、きみはぼくで、そうしたら何も考えなくて済むのに。きみをどうにもしなくてもよくなるのに。求めることも求められることも無いまま永遠に満ちて、ひとつのふたりは幸福の只中にいられるのに。なぜぼくにはきみを書き換える権利が――義務があるのか。期待に満ちた目を向けられても与えられるものなんてひとつだって無い。

 閉じ箱として完成できたなら。
 それ以上に甘美な夢なんて、ひとつとして。

「神獣さま」
 駆ける脚は勢いを失くし、ついにくずおれた頭上から宝石が降る。パラパラと足元に散る煌めきは薔薇色の呪いだ。
「わたくし、さいごにお伝えしたいことが」
「……さいご?」
「左様です」
「僕を置いていくのか」
「左様です」
 乾いた唇が言葉を掠れさせた。
「……聞こう」
「左様なら、と」
 パンッと小気味のいい音がして閃光が飛び散った。

 ――指先が震える。まだ温かい。

 砕けた残骸を手に思う。
 よかった。ああよかった。これで思案から解放される。何も考えずに済む。奪わず奪われない平穏がまた降りてくる。
 目の奥から感情が溢れる。よかった。

 どうにか、できたらよかった。




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