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□永遠のいつか
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ポーンと重さの無い音が画面から流れ、顔を上げると青い光が目を刺した。午前二時。日付を回る前から付けたままになっていたテレビはすでに放送を終え、わずかも動かずに夜明けを待つらしかった。
この古い家に住むことになってから随分と経つ。今は眠った同居人は、昨夜もふわふわと取り留めのないことばかりを繰り返した。
どうしてこうなったのだろうな、と。そうただ思うことは少し難しかった。胸にある何かが難しくさせた。すべてが鮮明だった頃に強く感じた畏怖さえ今や遠く、ぶれた輪郭は揺れて重なりまた離れる。彼が彼なのか彼でないのか、それを突き詰めることはひどく酷に思えた。
違和感が疑惑になり、疑惑が確信になる。けれど確信もそのうちに溶けた。何も考えたくなかった。考えずとも現実はただそこに在った。
――幸福とは、生きるとは何なのだろう。何だと思えばいいのだろう。
小さな物音は安心と不安の真ん中にある。一日、また一日とつつがなく終息していく日々に、見出だせるものはきっとあったはずなのだけれど。
サリ、と乾いた藁の擦れる音。踏み込んだ彼の部屋は古い畳のにおいがする。青かったはずのそれが張り替えられなくなってから久しく、その上に落ちた老眼鏡を見て何も思わなくなってからもやはり久しかった。先程の物音はこれだろう。
「どうされました」
「頭ぁ痛い」
「……タオル、濡らしてきましょうか」
「うん」
幼い物言いだった。厳格な祖父のそれではなく、どこか不安気に揺らめく視線はちぐはぐに穏やかだ。夜は夢に人をさらう。
平たい布団の上から時折零れる呻き声にも、慣れかけている。
「もしかしたら」
不意に声が落ちた。顔を上げると彼は穏やかな目をして、こけた頬のあたりをさらりと撫でた。
「明日床屋へ行ったときに、このあたりをちょっと綺麗にしてもらってね」
澄んだゆるい風が吹いていくような。木漏れ日の明るい水面がささやかに揺らぐような。
さらわれた夢の中で、彼の声音には決まって角が無い。
「僕ね」
ええ、と応えた声は掠れて音にならなかった。
「明日ここと隣の港へお菓子を配りに行くんだよ。二十個くらい仕入れて。そこの波止場へ大きい船が止まってね」
「ああ……じゃあ、お忙しくなりそうですね」
「うん。それでね、そのとき」
じわりと、穏やかな熱に彼の瞳が滲んだ。
「そのとき、一緒に行きませんか」
つき、とこめかみの辺りがほんの、ほんの砂粒ひとつ分だけ痛んだ。習い性のように口角を上げてそれをやり過ごす。
「僕でよろしいですか」
「ああ。ええ、結構です」
この人はーーこの人には、きっと昔の画が見えていたんだろう。
夢を彷徨うように視線を宙に浮かせたまま、最後まで目の奥の慕情がこちらを見ることはなかった。部屋に満ちた幸福が喉に詰まって、ろくろく言葉も紡げないまま踵を返す。
引き戸に背を預けて、床に落ちた長く細いため息は夜気に消えた。
曖昧な未明。これまで幾度となく繰り返され、果たされもせず反古にもならなかったぼやけた煌めき。宙に浮いたまま静止した永遠のいつかたち。
水色の時間に交わした約束を覚えているのは、きっと僕だけなのだけれど。