楠の雑記帳。

□呪いは甘く
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ふと目が覚めて体を起こすと、滴り落ちた数滴の涙が微かな音を立てて布団に染みを作った。

どんな夢を見たのか、そんなことは目覚めた瞬間に忘れた。
悔しかったのか、寂しかったのか、悲しかったのか…
そう思いを巡らせかけたところで、血の気が引いた。

「まずい…」

思わず呟きがこぼれる。考えてる場合じゃない。

夜中の涙は彼を呼ぶ。

ベッドから降り暗い中クローゼットを振り返って、けれど着替えている暇はない。椅子の背の上着を取る。ドアに向き直り、

「こんな夜中にどこに行くつもりだよ」

首筋に息のかかる近さで囁かれ凍りついた。
低く言葉の端々がかすれた、若い男の声。だらしのない言葉の響きは妙に艶めいて聞こえ、反射的に肩をすくめる。
壁面にある照明のスイッチに手を伸ばすと途端にその右手を搦め捕られた。その手はひんやりとして、けれど人肌からかけ離れた冷たさではない。

「お前みたいなのが出歩くとさらわれるぜ?」
「それをあんたが言う? この変態」

優しげな言葉をはねつけると彼が笑った気配がした。

「俺はお前に会いに来てるだけだ」
「ロリコン。ドS。変質者」
「何か問題でも?」

背後から抱きすくめられると同時に声が一層近くなり、ざらりとした生温かい感触が涙の跡を忠実に辿って頬を這う。
湿った軌跡が外気にさらされ冷える不快感を無視していると、彼は舌打ちした。彼の肌の温度に比べ、意外なほど熱い吐息が鼓膜を揺らす。

「もっと怯えろよ」
「無理」
「ロリコンでドSで変質者なのに?」

からかう声音に溜息を一つつき、もう一度電気を点けようと試みる。その動きを感じたのだろう、緩く回されていた彼の腕に力がこもる。だが苦しくはない。加減されている。その半端な力に、捕らえた獲物をいたぶる猫を思う。

拘束された苦しい体勢から数度空振りし指先に引っかけるようにしてスイッチを押した。
部屋が明るくなると同時に、背中に密着していた温度が離れていった。ふと心もとない涼しさを感じた背筋に、彼の体にも温かみがあったのだと初めて気付く。

「…眩しいっつーの」

遠慮なくベッドに腰を下ろし顔をしかめている男の瞳は赤い。宝石のようだとは形容しがたい禍々しい色で、そのくせ澄んでいる。炎の色をしているのに彼の瞳はこんなにも冷たい。

無邪気な獣。嬉しげにじゃれついたかと思うと、くるりと表情を変えて冷淡に牙を剥く。そこに矛盾は存在しない。

ライオンの鬣(たてがみ)のように毛先が緩く跳ねた髪をかき上げ、薄い唇を微笑の形に歪めて彼は目を細める。

「だいたいな、変質者以前に人間じゃねぇモノ見てなんで怯えねぇんだ」

人間ではないモノ。その言葉に振り返り、改めて彼を見る。

ぱっと見人間にしか見えない、というのが、以前も今も正直な感想だ。少々色白だが血色が悪いわけではないし、癖のある短髪も黒。長い手足も痩せた長身に見合っていて、服装も黒ずくめだが奇抜ではない。

だが鮮やかに赤い瞳がそこに加わる、それだけで人間に酷似した彼の容姿は人ならぬ気配を纏う。
そしてその姿は、いつ、どこで涙をこぼしたとしても、それが夜である限り部屋の暗がりから現れる。

『忘れるな』

思い出すのはかつて囁かれた呪詛。

『それがいつであろうとも、必ずお前を見つけ出す――』

大型の獣がするように、覆い被さって涙を啜った彼が語ったそれは睦言にも似て。

そう、そもそも獲物が怯えない理由など、彼自身も知っているはずなのだ。

「あの日あんたが喰ったからでしょ」
「喰い尽くしてもそのうちまた湧き出てくるのが普通じゃねぇのか。すっかりアテが外れたぜ」

外に逃げるのは諦め、上着を元通りに椅子の背に掛ける。ふと見やった時計は午前3時を指していた。丑三つ時も過ぎている。夜明けはまだ遠い。

『お前の恐怖、喰わせてもらった』

あの夜彼は満足げに嗤ってそう言った。妄言にしか聞こえなかったが、以来、化け物である彼が来ても怖いとは思わなくなったのは事実だ。

「いいから怖がれよ、腹減ってんだけど」
「じゃあ怖がらせてみなさいよ」

面倒になって呟くと、途端に彼は妖しい微笑を閃かせた。それを見て失言に気付いたがもう遅い。

声を上げる間もなく長い指で手首を捕らえられ、引き倒された。至近距離で見つめ合う形になり、思わず顔を背けようとすると顎を掴まれ無理矢理向き合わされる。

意外なほど冷めた眼差しにじっくりと観察される。

「…全然駄目だな。欠片もねぇ」

不満げな呟きに少しだけ肩の力を抜く。同時に、緊張している自分を叱りつけたくなった。隙は見せたくないのに、どうしてこうも翻弄されてしまうのか。

睫毛が触れあうほど近くにあの瞳があるという今の状況に、何故か心拍数が上がっている。

「……駄目って何。そもそも私ってあんたにとって何なの」

気まずさを誤魔化すように発した問いに、彼はにたりと嗤う。人間らしさを限りなく薄めた捕食者の笑みは酷薄で奔放で。

「食事以外の何物でもねぇよ」

それでも怖いとは思えないのは何故だろうか。

「で、お前なんで泣いてたわけ」

じっと覗き込まれて答えに窮する。
悔しかったのか、寂しかったのか、悲しかったのか。
目の前にいるモノが、自分の気持ちが、わからないことが。

「…知らない」
「涙は嘆きの味がしてたぜ?…ま、そんなくだらねぇ感情でも多少の腹の足しにはなるか」

嗜虐的に口角を吊り上げた彼に襟首を掴まれ、更に近くへ引き寄せられる。なけなしの距離がゼロになる。
それでも頭は冷静でいる。だからこそ思う。

いつか、この冷ややかな双眸に、肉食獣めいた嗤いに、噛みつくようなキスに、彼に対する反感も侮蔑も抵抗も全て喰い尽くされて堕ちる時が来る。

そしてきっと、それを拒みはしない。

こうしている今でさえ、心は揺れているのだから――

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