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「今日は帰るのが遅くなるかもしれません。先に休んでいてください」
誉に上着を預けながらいえば、彼女は振り返り微笑んだ。柔らかな髪が揺れる。
「わかりました。お帰りになるのはいつ頃でしょう?」
「明日の昼頃。いつも迷惑をかけます」
「気になさらないで。また今度お出かけしましょうね。それで我慢致しますから」
そのあまりにも可愛らしいことをいう口を、一瞬塞ぎたくなるが我慢する。これで彼女が裏社会の人間でなければ、今頃美味しくいただいていただろうに。惜しいことだ。
代わりに微笑んで、彼女の頬を優しく撫でることに留める。それから二人で誉の作った遅い昼飯を食べて、穏やかに言葉を交えた。
はたから見ればまさに夫婦のように。のんびり静かに暮らすさまは鴦夫婦のようだろう。
食事を終え、家事を手伝ったあと、娼館に向かうために長屋を出る。広い通りを歩いていると、遥か向こうに見たことのある桃色を視覚が捕らえた。傘をさすその背は、彼女にしては些か高い。
「――!」
そう思った瞬間、咄嗟に走りだそうとした自分を押し止める。突然走りだせば通行人からの目と記憶に残る。それは何がなんでも避けなければいけなかった。
見失わないように彼を視界に入れながら、かつ余計な殺気を溢れさせないように、ある程度の距離を保ったまま歩く。
なぜこんな往来、彼はここを歩いている?
あたりに仲間がいるようには思えない。いや、数人散らばっているようだ。改めて意識すれば、対象を追う視線があることに気付く。罠だろうか。
山崎君は一旦彼の尾行を打ち切ったといっていた。対象が消失したならば当然の判断だ。監察方の性質上、かなり執拗に消失後も捜索したはずだが、それすらも振り切ったのにどうしてここにいるのだ?またつけられると知っているだろうに。
左手の指先に愛刀の柄が触れる。沸き立ちそうになる闘志をどうにか押さえ込み、傘の男を追う。
山崎君に連絡しようかとも考えたが、今気を抜けば確実に彼は消えるだろう。夜兎の能力は侮れない。幸か不幸か彼らの存在は知っていても、やりあったことはないのだ。
ゆっくりと日が暮れゆく中、ひたすらに彼を追う。やはり罠だと気が付いたのは、彼が廃墟へ向かっていると気付いたときだった。立ち止まりどうしようか考えようとしたとき、前方で明るくふざけた声はいう。
「おいでヨ。別に怖いわけじゃないでしょ」
やはり、気付かれていたのか。部下をしばく前に自身を鍛え直さなければいけないようだ。嘆息しながら言葉に従う。
廃墟の前、人のいないひらけた空き地で、彼はこちらを向いて傘を閉じた。桃色の髪のお下げと、アンテナのようにたった前髪。浮かぶのは楽しそうな緩い笑み。しかしそれは彼の本心からの笑みではない。
二人、その空き地で静かに対峙する。正しくは二人ではない、彼の仲間があたりを囲んでいるのには気付いていた。姿を隠すのが上手い。
「この間君には会ったよね。かよの仕事場だっけ?」
沈黙を破ったのは相手だった。なんてことのない声音に、平然と応える。
「ええ、そのあとにも一度」
「真選組なんでしょ。君強いの?」
「さぁ」
「名前教えてヨ」
脈絡のない問いかけに、微笑することで返す。
「自分から名乗るものでは?」
「俺には関係ないよ。で?教えてくれないの?」
「……三番隊隊長、斎藤壱」
「壱は左利きなんだ」
「ご覧の通り」
刀を示しながら肩をすくめる。焦ったところで変わりはない。少なくとも彼は今すぐに私を殺そうとは思っていないようだった。それだけわかれば十分だ。
彼はにこにこ笑ったあと、おもむろに背後を振り返り、軽く跳躍することで塀の上に立った。嫌になるほど見事な身体能力だ、分けてほしい。
「お帰りですか?」
「うん。今はまだいいや」
黙って見ていれば、こちらを振り返った男はにこやかに笑いながらいった。
「俺は神威。妹をよろしくネ、壱」
考えるまでもなく、神楽のことだ。彼は最後に凶悪な笑みを一つ残して、気配すら残さずに消え去った。
「強くしてあげてよ、あの侍さんみたく」
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