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□五
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その誘い文句は、ひどく甘美なものに聞こえた。ゆっくりと瞼を閉じる。それに答えられたなら、なら私は――。
ぶる、と震える。
それは、なんて愉しいことなのだろう。
身体が熱かった。沸き起こるのは、憎いほどの怒り。無茶苦茶にしてやりたくなるほどの、哀しみ。その衝動を押し殺して、どうして今まで生きていたのだろう、生きてこれたのだろう。
この男に縋ってしまえれば、どれほど良かったのだろう。
浅い呼吸を繰り返す。すぐに断ち切られてしまう私の生命。もうしばらく待って。
瞼をゆっくりと開く。目に入るのは鋭く妖しい隻眼と、艶やかに笑む狂気を纏う男。きっと、彼の誘いに応えれば、私も同じようになるのだろう。
同じ、鬼に。
「――断ります」
眼がきっと細められる。それを見ながら、鮮やかに笑い吐き出す言葉。
「私の狂気は、そう誰にでも魅せられるものじゃあ、ないんですよ。嬉しいお言葉ですが、私を釣るには足りない」
「……は、贅沢な野郎だ」
「なんとでも」
肩をすくめる仕草をしながら応える。顎を掴んでいない片方の指が下肢へと伸びるのを眺め、奴の顔をとくと見た。私の生命を制止させる者の顔。
するりと指が頬を撫でた。近い距離で互いを見つめ合う。それは愛では無論なく、私たちの間に漂うのは、残酷な意志だけだった。
「参考までに聞いてやる。何を餌にすりゃてめェは釣れる?」
「そんなもの、決まっています。君と同じ」
大事な、人。
そう答えようとした唇は乱暴に塞がれ、するりと分け入った舌が口内を蹂躙した。荒い呼吸を必死に押さえながら、少しでも身を引き離そうと身体を捩る。それを容易に押し留めながら貪るように唇を吸われ、ろくに呼吸すらできなかった。
「っん、――っ、っけほ」
「そいつァ結構。てめェを引き留める野郎には、たっぷりいたぶったてめェの死体を送ってやるよ。感謝しな」
「生憎と、私の想い人はすでに他界していますから。お気になさらず海にでも投げてください」
「……はっ」
不意にかくりと男の頭が垂れて、胸の谷間に顔が埋まる。何事かと目を見張れば、くくくと笑みがこぼれだした。変態かこいつは。
顔が上がり真っ直ぐに視線が突き刺さる。指が胸を伝い喉を這い、そして唇を撫でた。何がしたいのかわからぬまま眉を潜めれば、奴の笑みが深まった。
「大事なもんが亡くなっちまったような顔じゃ、ねェよ。無自覚か?」
「君にわかるわけがないでしょう……。私にとっての唯一無二は、もう、いない」
ミツバ。
君はいない、君がいない。
あの日の痛みを思い出す。呼吸すらできないような、そんな激痛を。この右手よりも背中よりも痛い痛いあの嘆きを。
けれど、私は生きている。
生きて、いる。
――な、ぜ?
「……いっそてめェを護ってた野郎が哀れだな。愛でることもなく嬲られた死体で帰ってくるんだからよ」
は、と鼻で笑う声を聞き、はっと我に帰る。睨み上げようとした瞬間、下肢を愛撫していた指が秘部に突き立てられた。意識しない嬌声が口を割って飛び出、顔が熱くなる。腹立たしいことこの上なかった。
目を閉じながら声を押し殺そうと唇を引き結ぶ。始まった猛烈な愛撫と執拗なまでの抜き差しに、否が応にも甘い声が漏れた。
「んっ――、っぁ、……つっ、しつっこい……っんですよ!!」
「その鳴き声でいわれても、余計乱したくなるだけだな。おら、鳴けよ」
「――っ!!」
激しい突き立てに意識が飛びそうになる。貫通した右手が引きつれ、赤い血が頬や胸元にはねた。それに気付いた奴が舐めとるのもそのままに、ゆるゆると意識が落ちていく。体力がすでに持ちそうになかった。
意識が途切れるその瞬間、見た奴の顔は。
「欲しいな」
まるで、愛しい玩具を壊したがる子供のように、邪気なく悪意めいていた。
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