お借り

□ありがとう、なんて
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…夏だというのに、その日の夜は妙に涼しかったように思う。

どこか部屋の冷房が漏れているのだろうかと、オルクは人気のない屋敷の廊下を歩き、内心首を傾げた。

気持ちの持ちようにもよるだろうか、だとしたらいったい自分は今何を思い、あの場所へ足を進めているのだろう。

そう考えたら実に滑稽なことだと、オルクは自嘲する。


目の前の真っ白なドア。

傷1つないそのドアを傷つけないように、コンコンと軽くノックをした。

暫しの沈黙。

その沈黙の間、きっと彼女は一度扉を開けることを躊躇したに違いない。

真夜中の訪問者の存在を知っていたのなら。

開いた扉の隙間から顔を覗かせる彼女は、彼の訪問に戸惑った様子はない。

ただじっと彼を見つめ、眼鏡の奥を細めた。

オルクはその場で笑顔を取り繕ったが、実際の彼女を目の前に、高ぶる感情を必死に抑えようとする。

久しぶりに見る彼女に違和感を感じると思えば、寝間着だからだろう、いつもの白い白衣ではなく、彼女にしては珍しいペールグリーンのパーカー姿だった。

「…入れば?」

小さく呟くようにそう行ってオルクを部屋に導く。

彼はレイナの後を追うように、中に入り、ドアを静かに閉じた。



「よくもそうぬけぬけとここに戻ってこれたものだな。」

いつもよりも一層低いオルクの声。

乱暴に床に押し倒し、レイナを見下ろす彼の目は、鋭く冷たい。

カタリと衝撃でかけていた眼鏡が落ちる。

レイナはそんな状況でも冷静で、じっとオルクを見つめていた。

その顔が気に入らない。

彼女の余裕を崩したくて、オルクは白い、彼女の首に手をかける。

「…ごめん。」

漏らされたのは、その一言。

その言葉に、オルクの中の何かが、プツンと音をたててキレた。



「ふざけるなッ!!」

その怒鳴り声は鼓膜に響き、流石に気圧されたか、レイナの体は一瞬震える。

「…いくら周りを振り回せば気がすむ?」

抑えようとも、その声から怒りは消えない。

「あの子が、どれだけ貴女を想っていたと思う?」

あぁ、わかっている。

「貴女のいない所でメフィストがどれだけ苦しんだと思う?」

自分は悔しいだけだ。

片割れが苦しんでいる時に何も出来なかった。

こんな人間の小娘に、弟の気が乱されて、

信じたくなかっただけだ。

弟がこの女を、狂おしいくらい愛しているなどと、


「…今だけを見ることが出来なかった。」

聞こえた彼女の声は、申し訳なさげな、とても弱々しいもの。

「だって、アタシはどう足掻いたって、メフィストと同じ時は歩めないんだよ…?」

彼女の言葉に目を見開く。

「そんなの、悲しいよ…。」

目元を腕で隠す。

自分のみっともない痴態を見せたくなくて、見られたくなくて、隠した。

「…それが、貴女がここから去った理由ですか。」

「偽善行為って言われても仕方ないと思ってる。でも、自分から突き放すことしか出来なかった。」

自惚れではない。

彼女はわかっていたのだ、メフィストが自分との契約を切ったところで、手放す気がなかったことを。

自分を繋ぎ止める為にまた自分との契約することを彼はきっと望む。

辛い日々を、また繰り返すことが耐えきれなかったのだ。

ずっといれば辛いだけ。

深く関わってしまえば、それだけ悲しみは大きくなってしまう。

だから彼女は自らメフィストを突き放すことで、それ無くそうとしていた。

それが、最善の策だと、信じて疑わなかった。


「でも、やっぱりダメだった…。」

呟く彼女の声は震える。

「離れたら、恋しくなって…。1人は酷く寂しくて、心細くて…、」

もう手遅れであることを知った。

彼と過ごした日々は、彼女にとって、それだけ大きなものになってしまっていた。



「メフィストが、好きで好きで仕方なかった…ッ!!」

腕の下から、隠しきれずに涙が伝う。

彼女のその言葉が、"実験対象として"などという小さなことでないことが、オルクにはわかっていた。

「身勝手なのは、わかってる。メフィストの優しさに、甘えちゃうのもいけないことも知ってる。オルクが怒るのものも、恨むのも当然なんだ。悪いのは、全部アタシなんだから…ッ」

ここまで謙虚な彼女の姿を、オルクは見たことがなかった。

いつもはあれほど堂々としている彼女の面影は何処にもない。

「ごめん、オルク。ごめんッ…。」

悪魔の為に泣く彼女を、これ以上どう責めろというのか。

オルクはそんな彼女を目の前に、あれほど高まっていた感情が、静まっていくのを感じた。


「…全く、敵いませんね。貴女には…。」

苦笑を漏らし、彼女から手を放す。

驚いたように自分を見上げる彼女にふっと笑みを浮かべた。

「つくづく貴女は、甘い。けれど、それが貴女らしさですかね…。」

そんな彼女だから、きっとメフィストは彼女を愛したのだ。

手袋越しに涙を拭いつつ、やはりこれはメフィストの仕事だろうか、と少々皮肉めいたことを考える。

「手荒なマネをしてすみません。」

そうして彼女の腕を引き、身を起こさせる。

「おかえりなさい、レイナ★」

遅れた出迎えの言葉に不快になることはなく、彼女は小さく『ただいま』と笑顔で返す。

認めたくはないが、自分はそんな彼女が嫌いでは無いらしい。

彼女が帰ってきてくれたことを喜んでいる自分が、なんだか可笑しかった。








ありがとう、なんて
(伝えることはないけれど、)
(そう、心の中で呟いた)




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