幕末恋風記[本編6-]

□八章# イベント (A)
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----08.5.1#もっと知りたい

(土方[裏])




 彼女はよく空を見上げている。
 晴れていても、曇っていても、雨が降っていても、同じ顔でただ穏やかに見つめている。
 その向こうに何を見ているのか、俺にはいつも読み切れない。
 そんな彼女を見ていると、彼女の見る景色は俺よりも広く、深くて、とても遠いような気がしてくるのだ。

 屯所への帰り道、空から降ってくる雨をじっと見つめる猫がいた。
 それがまるで葉桜君のようで、俺はつい拾ってしまった。
 だけど、屯所内で飼ってもいいものだろうか。
 トシには散々に言われそうだと苦笑しながら連れ帰り、俺は彼女の部屋の前を通りがかる。

 そこには、空から降ってくる雨をじっと見つめている、着流し姿の葉桜君が立っていた。
 いつもと同じ顔で、降ってくる雨を見ているのか、その向こうに誰かを見ているのか、それとも涙を流しているのか。
 遠目にはよくわからなかった俺が砂利を踏む音で気が付いた葉桜君が、ゆっくりとこちらを見る。

「可愛い、猫、ですね」

 葉桜君はいつになく掠れた声で言って、少しだけ咳き込んだ。

「葉桜君?」
「大きな声を出さない方がいいですよ。
 せっかく、土方さんが眠っているんですから」

 バレないほうが良いでしょうと、葉桜君はかすかに笑う。
 その様はいつもと違いすぎて、俺は戸惑ってしまう。

「鬼の霍乱?」
「あんな怪我をすれば熱だって出ますよ」

 葉桜君がいう「あんな怪我」というのは、昨日桜庭君らと出ていたトシが矢傷を受けて戻ったことだろう。
 いつにない大怪我に屯所内は一時騒然としていたが、トシ自らの一喝でそれは直ぐに収まった。
 トシの熱が上がったのは夜からだったと、烝から報告を聞いている。
 葉桜君も看病をしていたのだろうか。

 既にトシの怪我の状態が峠を超えているというのは、葉桜君の様子を見ればわかるというもの。
 もしも危険な状態ならば、今ここで葉桜君がぼんやりしていることなど無いだろう。

 そんなことより、と葉桜君は俺の腕から猫を取り上げた。

「ずぶ濡れですね」

 猫をそっと撫でながら囁く葉桜君の声は、雨の音にかき消されそうなほどだ。

「一緒にお風呂で温まりますか」
「そうだね」

 猫と同じく、葉桜君も相当びしょ濡れだということに、俺は今更のように気がついた。
 その見た目よりも細い肩に触れると、葉桜君の身体は氷の室に入った後のように冷たい。
 俺は葉桜君の肩を押して、彼女の足を風呂場へと進めさせる。

「近藤さんも一緒にどうです?」

 何気ない葉桜君のからかいの言葉に、俺は一瞬だけどきりとした。
 俺が葉桜君をそういう対象として見ることはないけれど、それでも葉桜君は魅力的な女性だ。
 容姿や行動には確かに普通の女性らしさもないし、初見ではいつも男姿であるから男に間違われることも多い。
 それでも、葉桜君を形作る内面の魅力は隠しようもなく、男女問わずに惹かれるものは多い。

「…葉桜君」
「ふふ、冗談ですよ。
 鈴花ちゃんと烝ちゃんに怒られちゃう」

 葉桜君は今のように、何の気なしに心臓に悪い冗談を平気で言う人だ。
 今回は本当に質が悪い冗談だと思った。
 雨に濡れ、着物がぴったりと体に張り付いて、普段は見えないその体の線をくっきりと示している。
 俺でなければ、葉桜君はどうなっていたことか。

 俺は自分の羽織を葉桜君に羽織らせて、猫を抱いたままの彼女を抱き上げた。

「葉桜君も熱がありそうだね」
「そんなことありませんよ」

 近くの縁側から二人で屯所の中へ入り、廊下を歩いて風呂場へ向かう。
 その間、葉桜君にしては珍しく大人しかったのは、やはり調子が悪いせいではないだろうか。

 俺は風呂場につくと、葉桜君を湯船に直接放り込んだ。
 そして、直ぐさま風呂場を出て、脱衣所の閉めた扉の前に座り込む。

「葉桜君が何を考えてるか知らないけど、また熱を出すよ」

 静かな風呂場に俺は声をかけたが、葉桜君からの返事は何もなく、どころか物音一つ返らない。
 まさかあのまま沈んでいるんじゃないかと俺が不安に思う頃、湯船から葉桜君が上がる音が俺の耳に届いた。

「…そっか、気が付いてあげられなくて、ごめん」

 呟くような声だったけれど、静かな風呂場の中で響く葉桜君の声は、俺にまで届いた。
 次いで、風呂場に響く抜刀の音も。

 俺が驚いて風呂場の戸を開けた直後、そこにはざくりという肉を貫く鈍い音が響いていた。
 地面に置かれた猫に対し、その小さな心臓に真っ直ぐに剣を突き立てている葉桜君の顔は、彼女自身の長い黒髪で隠れて俺には見えない。

「葉桜君、何をっ?」

 俺が駆け寄るまでに葉桜君は猫から剣を引き抜き、その胸にかき抱いた。
 濡れた着物に赤い雫が流れ滴る。
 場所が場所だけに、葉桜君の顔や髪、袖から落ちる滴のポタポタという音は風呂場内に木霊する。

「…て、ください」
「葉桜君、どうして…」
「出てってくださいっ。
 私にこの子を…送らせて」

 顔は見えないけれど、声にならない泣き声や悲鳴のような葉桜君の声に、俺は心臓の辺りをぎゅっと掴まれた気分になった。
 俺が話に聞いた光景と、今の葉桜君の姿が重なる。
 芹沢さんを送った時の話のそれと、今の葉桜君はとてもよく似ていて、似すぎていて。
 俺は余計に葉桜君を一人には出来なかった。
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