「灯籠流し」

□灯籠流し1
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 借り物とは言え道着を着るのは久しぶりだった。
 自然と心が引き締まる気がするのは気のせいだろうか。
 相手をしてくれるのはこの道場の先代という老人で、老人とは思えない動きをする身軽な人だ。

 回復してからおこうさんの手伝いをし、人のいないときに道場で身体を動かすようにした。
 自分の中で怖がる何かを振り払うように稽古に打ち込み続けた。

 だけど、昼間におこうさんの手伝いがないときはいつも裏庭の井戸で煙草を吸った。

 青空に紫煙が燻る。
 止める人はもういないし、なかなか減りの遅かった煙草はあと三本しかない。

「…おかあさんも、達海兄ぃも無事かなぁ…」

 会話をするうちに少しずつわかったのはまず自分の居る場所が過去の日本であることで、なにかをきっかけとして自分はこの花柳館に移動してしまったということだ。

 不思議なことにここは過去だというのに、母と同じ声をした娘や、達海と同じ姿形の男までいる。

「煙草吸ってる女ってのは珍しいな。
 あんた、芸者でもやってたのか?」

 取り上げられたことがあの日と重なる。
 達海も同じようにこうやって、人の煙草を取り上げた。

「あんたのいう達海ってのはどんな男だ?」

 あの日からまともにこの男と会話をしたことはない。
 それどころか、まともに口をきいているのはおこうぐらいだ。
 達海と同じ顔で、同じ声で話しかけないで欲しい。

「おい、華原」

 踵を返し、炊事場へと向かう。

「達海ってのはおまえの兄貴か?」

 誰もいない炊事場で調理器具を探し、食材を探す。
 その後ろを煩いぐらいにまとわりついてくる男を一瞬見る。

「達海兄ぃはあんたじゃない」

 夕食を作るのは、簡単なものならば任されるようになった。
 それというのも孝行して家事手伝いをしていたおかげだ。
 包丁を取ろうとした腕を取られ、睨みつける。

「そろそろ慣れてくれてもいいんじゃねぇの?」
「……」
「有栖って呼んでいいか?」

 振りほどこうにも振りほどけない。

「駄目」

 こちらを見る辰巳は意地悪く笑った。

「やっとこっちを向いたな。
 そいつはそういう風にあんたを呼んでたのか?」

 思い返せば何度でも思い返せる。
 両親以外で信頼できたのは彼だけだったのだから。

「そいつは有栖の兄貴だったのか?」

 殴り飛ばそうにも押さえつけられた腕は動きそうにない。

「近所に住んでただけで、血のつながりはないわ。
 手を離して。
 名前も呼ばないで」

 少しの真顔になった後でもう一度彼が呼んだ。
 二度目を許すつもりはないので空いている手の方で顔を殴りつける。

「普通女が拳で殴るかっ?」

 腕も解放されたので、体勢をまっすぐに相手へ向ける。

「利き手じゃないんでうまく殴れなかった。
 次はちゃんと仕留めてやるよ」

 本当は殴るよりも蹴る方が得意だ。
 女の力じゃ、本当には男に敵わない。
 殴られたというのに辰巳は楽しそうに口端をつり上げて笑った。

「良い度胸だな」
「大人しく助けを待っていられるほど気は長くないんでね」

 繰り出した拳を避けられたと思った瞬間、体を移動し、足蹴りを繰り出す。
 それはうまく彼に当たってくれたが。

「いい蹴りだ」
「…そらどーも」

 びくともしやがらない。
 やはり不意打ちでなければ勝てない相手らしい。
 そんな男の相手をするのはお断りだ。
 構えを解いて、男と真っ直ぐに向き合う。

「なんだ、もう終わりか?」
「勝ち目のない戦いを続ける意味はないよ」

 達海と同じ顔で同じ声で楽しそうな男を強く睨みつける。

「何故私に構うの?
 あなたにとっては無関係の人間でしょう。
 そして、あなたはそういう人間に感心がないはずよ。
 なのに何故私を気にかけるの?」
「有栖」
「達海兄ぃと同じ顔で同じ声で呼ばないで」

 だけど、彼は何度も呼ぶ。
 私は両目を強く閉じて、心からそれを拒絶した。

「俺も辰巳なんだぜ」

 ふいに近くで声がしたので目を開けば、間近に同じ顔があって。

「な、有栖。
 遊びにいかねぇ?」

 こんなに非常識なところまでそっくりだから、困るんだ。
 似ているだけだと思っているのに、細かな行動が似すぎていて困る。

 調理器具の中から殴り良さそうな柄杓を手にし、すかさず殴り倒したところで、他に人が現れてくれた。
 あの日、水をかけてくれた志月倫という女の子だ。

「辰巳さん、庵さんが呼んでます」
「邪魔すんじゃねぇよ、倫」
「仕事です」

 小さく舌打ちした後で、彼は漸く姿を消してくれた。

「辰巳さんに何もされてませんか?
 あ、これから下ごしらえですね。
 お手伝いします」

 気遣ってくれるのは少し気恥ずかしくて、でも御礼も言えないほど白状ではない。

「ありがとう、志月さん」

 少し驚いたように私を見て、それから彼女もどういたしましてと笑ってくれた。
 訂正、少しじゃなくて、すごく恥ずかしかった。
 彼女の目は真っ直ぐすぎて、まるで昔の自分を見ているようだったから。

「あなたなら名前で呼んでも構わないのに」

 他の誰が呼んでも、彼にだけは呼ばれたくない。
 彼と似すぎるほどに似ている辰巳にだけは。

 だが、翌日以降は煩いほどに名前を呼ばれ、つきまとわれることになることを今の有栖は知らない。
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