幕末恋風記[追加分]

□(元治元年水無月) 03章 - 03.4.1#気配
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(才谷視点)



 どこにいても葉桜さんの姿は目立っていた。旅をしているときでも、どこにいてもすぐにわしには見つけられた。特徴のある格好をしているというのもあるが、何よりも葉桜さんの空気が人を惹きつけるのだろう。だから、最初ぶつかった時の空気が違いすぎて、わしには葉桜さんだとわからなかった。

「すまない」
 囁くような謝罪の声は確かに葉桜さんだったのに、わしの知る気配とまるで違う。いいや、違うどころじゃない。今にも空に溶けて消えてしまいそうで、空気みたいだと思った。

 すれ違ったばかりの葉桜さんの姿をわしは慌てて追いかけ、見た目よりも細い腕を取る。

「梅さん?」
 振り返った葉桜さんはさしてわしに驚いた様子もなく、ただ小さく首をかしげていた。いつもわしが見る葉桜さんの笑顔とは全然違って、ひどく堅くて、空虚だ。葉桜さんという人は、こんな人ではなかったと、わしは思う。

「何かあったかえ?」
 ここにどうしてというよりも何よりも、わしには葉桜さんの様子がおかしいことが気になる。

「ははっ、何だ急に。今日は別に何もないよ」
 葉桜さんは笑っているけれど、そんなはずはない。何もなくて、こんな泣きそうな顔をしないだろう。もしも葉桜さんが泣くのだとしたらと考えかけて、わしの思考が止まる。普段の葉桜さんから、わしにはまるで想像がつかなかったのだ。葉桜さんは泣くことなどあるのだろうか。

「ちっくとわしにつきあいやー」
「その前に腕を離してくれないか?」
 笑っている葉桜さんの腕を引いて、わしは人気のない路地裏へと連れ込む。時間があればどこか店へ入ってとも考えたが、今は少し立ち寄っただけで、わしに与えられた時間は少ない。

 暗がりで問われる前に葉桜さんの顔を、自分の胸に押しつけるようにわしは抱きしめた。

「梅……?」
「泣きたいときは泣いていいちや」
 腕の中の葉桜さんの様子は、さっきから変わらない。わしの前で笑っているのに、強張った声で、何かを恐れる声で葉桜さんは呟く。

「……何、急に」
「葉桜さんは女の子なんやき、泣きたいときに泣いてえいがだ」
「別に、泣きたくなんか」
「ほがな風にしちょったら、みしくれてしまうよ」
 腕の中の気配はわしを恐れる様子も何もない。が、不意にくすくすと葉桜さんは笑い出した。

「みしくれ?」
「壊れる、ってことちや」
「壊れる? 私が?」
「あぁ」
「本当にそう見えるのか?」
 くすくすと笑う声と共に、葉桜さんの気配が変わる。いつもの包み込むような温かな葉桜さんの気配になる。わしから見ても、葉桜さんは無理をしている風ではない。ない、のだが。

「ああ、ダメだな。つい、クセで……」
 葉桜さんが離れようとする肩を押さえて、わしは強く抱く。彼女はいつものように動揺の微塵も見せない。

「なんちゃーがやないか?」
「なにがだ?」
「葉桜さん、まっこと辛そうちや」
 そんなつもりはないんだけどなぁ、と葉桜さんは静かに笑う。わずかに揺らぐ葉桜さんの気配だったが、今度はわしの腕の中で崩れずにそのままだった。

 わしは葉桜さんが強い女性なのだと思っていた。とてもとても強い、何にも揺らがないでまっすぐに歩む女性が葉桜さんだと。だけど、今の葉桜さんの様子は、強いには強いのだがただの女のよりも弱く、儚く、わしにはそのまま消えてしまいそうに見える。

 わしはぎゅっと葉桜さんを抱きしめる腕に力を込める。腕の中の気配はわずかに苦しげな呻き声をあげるものの、抵抗はしなかった。代わりに、葉桜さんは腕を伸ばせるだけ伸ばして、わしの背中を精一杯抱きしめ返してくる。

「まだ大丈夫。消えられない理由があるから、私はいるよ」
 すべてを見透かすかのような葉桜さんの言葉に、わしもつい腕が緩んで。その隙に葉桜さんはわしの中から抜け出してしまって。少しの、本当に手が届いてしまうぐらいの少しの間を置いて、また葉桜さんは強く微笑んだ。

「理由?」
「ああ、私はーーだから」
 通りを走る子供たちの元気な声が、葉桜さんの言葉を遮る。

「だから、まだここにいるよ」
「?」
 不意に葉桜さんが空を見上げ、眉をひそめるのを見て、わしも天を仰ぐ。

「ひと雨来るな」
 そんな気配もないのに言い出す葉桜さんに、わしは視線を戻す。

「葉桜さん」
「じゃあ、私は寄るところがあるから。またなっ」
 わしが引き留める間もなく、葉桜さんは風のように駆けていってしまった。一瞬見えたその目に涙の色は見えなかったのに、どうしてかわしは葉桜さんの後ろ姿が目蓋の後ろに焼き付いて離れなくて。

 葉桜さんは一体に何を考えて歩いていたのか。少なくともわしがまだそういうコトを話してもらえるような関係でないことだけはわかった。

「一体、何があったがだ」
 呆然としていたわしはその理由を探るために、場を後にする。もちろん、聞くとするならそれは葉桜さんが大切に慈しんでいる、同じ新選組隊士の鈴花さんしか思い浮かばないのだが。

 だが、鈴花さんはわしに何も教えてはくれなかった。あの宴の夜からずっと葉桜さんは同じだということだけで、それ以外には本当に鈴花さんは何も知らないようだった。

 あの宴の夜、芹沢さんを追うように出て行った葉桜さんの姿を、わしはまだ鮮明に覚えている。涙に濡れた綺麗な瞳で、強く睨むように出て行った葉桜さんはとても美しかった。魂に色があるというのなら、葉桜さんほど強く白く眩く光るものはないだろう。

 正直、あの時にわしは芹沢さんが羨ましいと思った。あれほどに強く想ってもらえるような人はわしにない。ましてや、葉桜さんほどの女性というのもなかなかいない。もしもわしが芹沢さんと同じ立場にいたとしても、葉桜さんに殺されたなら本望だ。

 わしは新選組の屯所を出て、寝屋への道を歩きながら考える。葉桜さんはまだ戻っていなかったが、一体どこへ行ったのだろう、と。

 夕闇で人の顔の判別も難しい黄昏時の道、すれ違う影に足を止めるより早く、わしはその腕を掴んでいた。弱々しい、消えそうな葉桜さんの気配が、とたんにわしの前に強く広がる。

「いきなり何するんだ。梅さんじゃなかったら、殴りかかってるところだぞ」
 カラカラと笑う様子は、いつもどおりの葉桜さんだ。だが、今のわしにはそれが作り物だとわかる。

「芹沢さんは、葉桜さんの何じゃったがだ?」
 びくりと、今日初めて葉桜さんの腕が震えた。それを覆い隠すように、尚強く、葉桜さんは笑む。

「大切だった人、よ」
「恋人じゃーなかったかえ?」
 わしが掴んだままの葉桜さんの腕が、また震える。彼女は抑えるように笑う。

「ははっ、それはない。だって、あの人と私じゃあまりに違いすぎる」
「まっことか?」
「相手にもされなかったよ。あの人にとって、私はただの……子供でしかなかったから」
 あの人と、囁く葉桜さんの声は震えている。必死に隠そうとはしているけれど、今のわしには意味がない。わしは黙ったまま葉桜さんの言葉を待つ。しかし、葉桜さんはそれ以上何も言わないままだった。

「風が少し冷たいな」
「雨が降ったからちや」
「ああ、そう、だな」
「また降るかもしれん」
「……だ、な」
 そこでわしが葉桜さんの腕を離したのは、震える声を聞いたからではない。葉桜さんの瞳が閉じられ、わしの前で静かに滴が溢れて落ちてゆく。

「雨が降れば、誰にもわからんよ」
「……っ」
 わしが抱き寄せようとする手は、葉桜さんに拒まれた。だけど、動かずに目の前で泣く女を放っておけるはずもなく、わしは道の端へ葉桜さんを誘導する。

「葉桜さんは芹沢さんが好きじゃったがだな」
「違……っ」
「芹沢さんも葉桜さんが好きじゃったがやき、よういかんなぁ」
「……っ」
 世の中は全てが思い通りになるものでもないけれど、それでも好き合う者同士がこうして離ればなれになるのは哀しいことだ。

「何故、嫌いなフリらぁてしよったがだ」
「……嫌い、だったもん」
「嘘をついてはいかんちや。わしにゃ全部お見通しやき」
 わしはそっと泣いている葉桜さんの髪を撫でる。葉桜さんの髪はさらさらと流れ、指通りがいい。それでいて、まっすぐで揺るぎない、芯の通った髪だ。

「まっことのことをゆうてみいーや」
「………」
「ほら」
 促すと、葉桜さんは一時泣くのを止めて、ただの幼い子のように不思議そうにわしを見つめてきた。

「どうして、わかる」
「葉桜さんのことなら、なんちゃーお見通しやき」
「……ウソ、ばっかり」
 泣きながら、ようやく葉桜さんが笑う。わしが今日見た中で、一番可愛らしい笑顔で。

「でも、そうね。一度ぐらい言ってあげればよかった。大好きだよって、」
 ただ真っ直ぐに、純粋に、一直線に向かってくる葉桜さんの言葉が、わしに向けられているものでないのだとしても。抱きしめようと伸ばした腕が、葉桜さんのただの笑顔に阻まれる。

「ありがとう、梅さん。おかげですっきりしたよ。これでやっとふっきれそうだ」
 葉桜さんはただ弱いだけの人ではない。今のわしに適う人じゃないと、意識させるほどに強い微笑みだ。

「葉桜さんのためなら、いつでも胸を貸しちゃるよ」
「あはは。面白い冗談だな、梅さん」
 それほど時間はないだろう、と笑った葉桜さんはもういつもの彼女に戻っていて。わしが初めて見たとき以上に、強く笑んでいて。

 その眩しさにわしは思わず目を細めた。



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