幕末恋風記[追加分]
□(元治元年文月) 04章 - 04.3.2#困ったときは…
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(山南視点)
水の揺れる音がゆっくりと私の意識を呼び覚ます。桜庭君がいるのかと思ったが、すぐ近くにある気配は同じように穏やかながら、少しだけ違っていた。
葉桜君であればいいのに、と私は願う。だが、彼女がここに来るはずがない。突き放したのは私なのだから。
二度、三度、と瞬きし、ゆっくりと覚醒する意識で、私はそばにいる人を見つめる。熱に浮かされてうまく働かないからなのか、その人は私が今一番逢いたいと願う人に見える。
「おはようございます、山南さん」
私が起きたのに気が付いた葉桜君のような女性は、ゆるりと穏やかな笑顔を見せた。声や笑い方まで一緒だが、そんなはずはないと、私は自身で否定する。だって、葉桜君は。
「まだ熱があるんです。山南さんはそのままで」
思わず身体を起こした私は、肩を押す葉桜君の軽い力に負けて、布団へ戻される。それから、葉桜君に上掛けをしっかと肩の辺りまで引き上げられて、その上から優しく叩かれた。
葉桜君であればいいのにと、私は願った。だから、こんな幻覚が見えるのだろうか。ああ、だが、幻覚でもそばにいてくれるというのなら、私はそれでも構わない。
「すまないな、葉桜君」
「いいんですよ。困った時はお互い様ですから」
幻覚の葉桜君は、私に向かって柔らかな笑顔を湛えている。
「何か欲しいものはありますか? 飲み物とか、食べ物とか」
喉は、乾いていない。食欲はまだない。ただ、叶うなら。
「葉桜君」
「はい」
幻覚にしては、葉桜君の澄んだ声ははっきりと答えてくる。私は起き上がり、今度は止められる前に、目の前の人を抱き寄せる。温かな幻覚は戸惑う素振りを見せたものの、次には私の背中に両腕を伸ばしてきた。
本当に、本物の葉桜君だったら、今の私にこういう風にするだろうか。
「ふふ、今日は甘えん坊ですね、山南さん」
いいや、それよりも幻覚でなければ、葉桜君はこんな風に私に笑いかけてくれないだろう。だから、これはきっと夢なのだと私は思った。
「この間は、すまなかった」
「なんのことですか?」
「君を泣かせるつもりじゃなかったんだ」
あの時、両腕で涙を拭って、部屋を出て行ってしまった葉桜君を想う。心なしか、腕の中で強張っている葉桜君を、私は強く抱く。
「葉桜君は誰にでも優しいとわかっていたのに、その優しさが私だけのものだと私は誤解してしまっていた」
私の腕の中で、葉桜君は小さく震えていた。
「葉桜君は常に誰かを無くすことを恐れているけれど、同じように私も葉桜君がどこかへ行ってしまうのではないかといつも不安なんだ。だから、ここにいてほしいと、私の手の届く処へいて欲しいと願って、」
「山南さんっ」
腕の中の葉桜君が強く、私の名を呼ぶ。
「まだ、体が熱いですよ。私はここにいますから、大人しく眠っていてください」
私の腕の中、哀しそうな顔で葉桜君が笑う。それはとてもあの時に似ていた。私といることが怖いのだと、無理をして笑ったあの日の笑顔と同じだ。
私は葉桜君の手を借りて、もう一度布団へ横になる。
「色々とすまないね。いずれ、必ずこのお礼はさせてもらうよ」
もう一度上掛けを引き上げながら、笑顔を浮かべたままの葉桜君が深く頷く。
「それじゃあ、私が病気になった時は山南さんが看病してくれますか?」
願ってもない申し出だから、私は迷わずを快諾した。
「ああ、もちろんだ。任せてくれ」
私の額に添えられる葉桜君の手は軽い湿り気を帯びていて、とても冷たい。その冷たさが私を緩やかな眠りに誘う。
「きみには世話になりっぱなしだからね。お安い御用だよ」
「ふふふ、世話になりっぱなしなのは私のほうです。でも、その時はお願いしますね」
私はここまで心乱される女性に出逢ったのは、葉桜君が初めてだった。それから、ここまで共にいたいと私が強く想った女性も初めてだ。
「葉桜君がそばにいてくれて助かったよ、ありがとう」
だから、幻覚でも葉桜君が私と同じ想いを抱いてくれれば嬉しい。私の前で照れた顔で笑う葉桜君はとても綺麗で、何よりも可愛かった。
「あ、あはは。何だか照れちゃうなぁ」
だけど、どうして今、笑っている葉桜君の瞳から雫が落ちたのか。問うことも出来ないまま、私はまた深い眠りについた。
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