幕末恋風記[追加分]

□慶応二年長月 09章 - 09.2.3#恋は落ちるもの
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 宵の望月にかかる雲がゆっくりと晴れてくる瞬間はとても綺麗だ。そこに月へと連なる道があるのだという話も、素直に頷ける。

 私は杯に映る月を揺らし、そっと微笑み、こくりと飲み干す。こういう月見酒というのも趣があって、なかなかに味わい深い。

 正面から吹き付けてくる夜風の心地よさに、私は両目を閉じる。こんなに気持ちの良い酒は久しぶりだ。

「しれば迷いしなければ迷わぬ恋の道、ねぇ」
 昼に鈴花から聞いたばかりの句を舌に乗せ、私はそっと囁く。と、急に近くで動揺する気配が現れた。

「どーしましたか、土方さん?」
 足音が近づいてくるのを振り返らずに、ただクスクスと笑いながら、私は手酌で杯に注ぐ。

「……どこでそれを、聞いた」
「うふふ、どこでしょうねぇ」
 どうぞと私が差し出した杯を受け取り、隣に座った土方が一息に飲み干したのを見届けてから、私は袂からもう一つ杯を取り出した。こういう月夜は一人酒も良いが、誰かと飲むのもまた良い。

「私は恋をしたことがないのでわかりませんけど、恋というのはするものではないのだそうです」
「ほう?」
「恋はおちるもの、と」
 聞きかじっただけの知識で、私にはよくわからない。だが、しようと思ってできるものではないというのはなんとなくわかる。

「葉桜は恋をしたことがないのか?」
 土方から意外そうに問われて、私はどうかなと少し考えてみる。だが、今までの誰も恋という定義に当てはまらないように思う。

「愛はなんとなくわかるんですけど、恋というのはちょっとわかりませんねぇ」
 私にとっての父様は、愛とか恋とかそういう次元には当てはまらなくて、もっと深くて温かいものだ。

「芹沢さんは」
 私にとっての芹沢も、そういうのとは違うように思う。芹沢に対する想いは、どちらかというと憧れのようなものが強かった。だからこそ、その変貌に私は大きく落胆したのだ。

「あの人は、そういうのじゃないです」
 彼のことを思い出したら、私はなんだか急に腹が立ってきた。そういえば、あの人は約束の一つも守ってくれたことがない。

 遊んでくれるといってもいつも私をからかってばかりだったし、真面目に勝負もしてくれたことがない。いつか迎えに来るという約束も、結局は果たされることはなかった。

 それでも、再会するまで自分が父様のように無条件に彼を信じてしまっていた理由は、今でもどうしてなのかよくわからない。

「そうなのか」
「そうですっ」
 急に不機嫌になった私に、土方は探る視線を向けてくる。

「山南さんは、どうなんだ?」
「は?」
「……あれも、必死だっただろう」
 私が山南さんを生かすために彼と勝負をしてから、まだ一年も経っていない。彼の怪我は、表面上はもう痕を残すばかりだが、まだその腕は以前のように振るえないままで、私は見るたびに泣きたくなってしまう。これで山南が生きていられると喜ぶ反面、彼の剣の道を奪った自分に後悔してしまう。だからこそ、私は山南には時々逆らえなくなってしまうのだ。

「山南さんのは、たぶん、恋じゃないです。そうでなければ、離れたりなんてできないんじゃないですか?」
 恋に落ちたら、もう他のことは見えなくなって、離れることがひどく辛くなるらしいと聞く。私は自分がそうなってしまっては困るが、そんな風に冷静でいられる間は違うと誰かから聞いた覚えがある。

 屯所が移転し、山南と離れたことに、私は少しだけ安堵した。自分の罪を見続けることは、ひどく辛かったから。

「そうか? 俺はそういう形もあると思うがな。恋に形など無いだろう」
 土方の言うように、恋に定まる形など無いとも聞く。だからこそ、私にはよく理解できないのかもしれない。

「まあ、そうなんでしょうけど、よくわかりません」
 私は素直にわからないと認めて、降参した。

 どうして私はこういう恋話を土方とすることになったのか。山崎や鈴花のような女同士ならあるが、異性に対して自分の恋心の話をしたことはないし、まさか土方からこんなことを聞かれるとは思わなかった。

「土方さんはあるんですか?」
 これ以上自分のことをつっこまれても不利なので、私は酒を注ぎつつ土方に切り返した。土方が考えている間に私は自分の杯にも注ぎ、それを一息に飲み干してから、土方を見るとじっとこちらを見つめる真剣な目とかち合う。

 土方はこの間からずっと何かを言いたげだが、私に読心術の心得はない。

「なんですか?」
 私が首を傾げると、土方は軽くため息をついて酒を飲み干した。

「良い月だな」
 土方の言葉に釣られるように、私もまた月へと視線を戻し、片手で杯を傾けた。本当に、今夜は良い月だ。 



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