幕末恋風記[追加分]

□慶応二年師走 09章 - 09.5.2#お人好し
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 夕暮れで朱く染まる町を、私は殊更にゆっくりと歩く。空も家も人も、全てが朱く色づく時を、この町では逢魔が時と呼んで恐れたともいう。だから、誰彼、という誰何の音を持って、黄昏、と当てるのだ。太陽が一日の最後に投げかける光が細く長く伸びる様を見ていると、魔と逢うというのも頷ける。

 ざわざわと落ち着かない心を落ち着かせるように、私はゆっくりと町を歩く。注意して歩かなければならないのは魔よりもむしろ私の方で、騒ぎ出そうとする淀んだ己の血を堪えるように、私は壬生寺へと足を急がせていた。

 自分の血が欲しているのはどちらかというと負の感情で、私は抑えるための術をすでに心得ている。

 ようやく辿り着いた人気のない境内で、私は徐ろに剣を抜き放ち、正眼に構えた。両目を閉じて、心を、世界へと溶けこませてゆく。ひとつに神経を集中することで、騒ぐ心は落ち着き、乱れる心を抑え制御することができる。そのための、場所であり、剣だ。

 私は周囲で動いた空気に合わせ、剣を揺らす。

「うぉあっ」
 耳慣れた声と尻餅をついた音で、それが誰なのか気が付いたが、私は目は開けない。

「危ないぞ、永倉」
「危ねェのはオメーだよ、葉桜! ったく、なんてェ気を放ってやがるっ」
 永倉の気配に合わせ、私はその腕を避けるのではなく、剣を揮う。風が、薙ぐ。

「ちぃっ!」
 世界に交わっている今の私には、どんな攻撃も意味を為さない。剣を掲げ、ゆっくりと振り下ろすと、それだけで私を中心に、風が巻き起こった。

「葉桜さんっ!」
 そして、収まる風の中で、私はゆっくりと両目を開けつつ、剣を鞘へと収めた。

 遠くに鈴花が仁王立ちして両手を強く握りしめており、私のすぐ目の前には永倉が倒れている。その肩を抑える手の間から、血がしたたり落ちるのを見て、私は永倉の前に膝をついた。

「よぉ、永倉」
 なんでもない様子で私は取り出した手拭いを引き裂き、永倉の肩を止血する。傷そのものは浅く、剣を振るのに支障はないだろう。鈴花は遠目に力を落として、へにゃりと座り込んでいた。

「なんで二人がここにいるんだ? そろそろ夕餉の時間だぞ」
「あんな気ィ放っていけるかよ」
「お人好し」
「っ!」
 手当を終えた傷口を軽く叩いて私が立ち上がると、永倉はその場所を押さえて呻いていた。

「誰もいないと思ったのに、こんなところで鈴花ちゃんと何してたんだ?」
 ふいと視線を反らす永倉の、怪我をしていない方の手を引いて立ち上がらせ、私は顔を寄せて囁く。

「遊びってんなら許さないよ」
「ちっ、違ェよっ」
 明らかに焦りの混じる永倉の返答を、私は笑った。私がどれだけ鈴花を大切にしているかを知っていて、気軽に手を出せるような男など新選組にはいない。

「お、オメーこそ」
「ん?」
「さっきのはなんだ? 今までみたこともねェ剣だぜ」
 私は返答に窮し、永倉に背を向けて、鈴花へと向かいあう。さっきの剣を見られたせいだろう。鈴花はやはり、私に怯えているように見えた。

「あれは剣なんかじゃないよ」
「剣でなくて、なんだってんだよ」
「あれは、私の飼っている獣さ」
 他に私はなんと云えば良かっただろう。正面から私を見つめる不安そうな鈴花に近づき、笑いかけただけなのに、私は泣きそうだった。

「時々酷く騒いで、何もかも壊してしまいたくなるんだ」
 差し出した私の手を取り、立ち上がった鈴花をそのまま柔らかに抱き留め、その髪に口を寄せる。

「愛しいのに、壊してしまいたくなるんだ」
 鈴花から伝わってくる動揺を笑い、私は彼女を手放して、永倉の方へと送った。

「壬生寺ここは抑えるには丁度良いから。私はもう少ししてから屯所に戻るよ」
 二人に背を向けた私は、くいと袖をひかれ。彼らが私を呼ぶ声を聞く。

「わけわかんねェこと言ってねェで、帰んぞ」
「帰りましょう、葉桜さん」
 私は振り返らずに、掴まれた袖を振り払い、社殿へと歩き出した。

「葉桜さんっ」
 騒ぎ出そうとする血を抑え、私は社殿の中で、今度は剣でなく扇子を構える。先ほどよりは静かに穏やかに、剣に見立てた扇子を揮う。世界に身をゆだねて、ただ揮う剣の先には誰もいない。これは稽古ではないのだ。境内にあった鈴花の気配が消え、永倉の気配だけが残る。心配性な男だなと思ったが、いつものような笑みは浮かんで来なかった。

 疲れてへとへとになるまで扇子を揮い、月が中天にかかる頃、後ろから私を抱きかかえる者に体を預ける。

「そろそろ帰るぜ」
「…っ」
「もう充分だろ」
 言い返す気力も振り払う体力もない私を、永倉は軽々と抱き上げる。開いた目の前には永倉の無精ひげがあって、心配そうな彼を私は笑った。

「お人好し」
「へっ、言える立場かァ?」
「…でも、有難う」
 本心を伝え、そっと目を閉じると、私の頬を一筋の滴が滑り落ちていった。

 動揺している永倉の様子が、触れる胸先から伝わってきて。彼の優しさが、触れる箇所から流れ込んできて。疲れきった私の体と心を、心地良く包み込む。夜の静けさから守られる温かさに身を委ね、私は意識もすっかり手放したのだった。



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