幕末恋風記[追加分]

□文久三年長月 02章 - 02.7.1#山南先生
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 私への新たな任務は、鈴花と山南の手伝いということだった。土方が言うには、山南の発明趣味を止めるためだということだが、私は別にそんな必要はないと思う。そういったら、そんなのは沖田と私ぐらいだと土方に言われてしまった。

 これでも私は宇都宮で道場主を勤めていた身であるし、多数の生徒を相手に教えていたこともある。自慢じゃないが、私を論破できる者というのはかなり限られたものばかりだった。そういう時だけは、私は頭の回転が良いとよくからかわれた。

「教材なんて作ったことないなぁ」
「ええっ、じゃあどうやって指導してたんですか?」
「ああ、私はほとんど見てなかったから」
「そうなんですか?」
「たまに臨時で講義と稽古付けてやるだけ。あとは弟とか叔父に任せっきり。気が向いたらやるって感じで」
 私の目の前で呆気にとられている鈴花の顔は、相当面白かった。くつくつと笑いながら私は清書を続けるので、時々字が歪む。

「じゃあせっかくだからたまに葉桜君の講義も」
「却下です」
 山南の提案を私は即座に却下する。そんな面倒なことをここに来てまで私は引き受けるつもりはない。

「剣の稽古なら一緒にみても良いですけど、講義はダメです。私の信念は人に伝えるものではないですから」
 私みたいのが何人もいたら周囲が大変でしょうと笑ったら、二人ともが呆れていた。

 鈴花が巡察でいなくなってからも、私は山南と二人でしばらく作業を続けた。どのくらい時が過ぎたのか、清書している紙の上に影が落ちたので、私は筆を置き、顔を上げる。

「そろそろ夕餉が出来る頃で……」
 私の頭の上にそっと山南の手が置かれ、ゆっくりと撫でられる。大きな手の重さと温かさが想い出を引き出すようで、今の私には辛い。山南に顔を見られないように俯きながら、私は声だけでも明るく話す。

「あは、急になんですか、山南さん。私、そんなに子供じゃありませんよ」
 顔を上げられないので、山南が今どんな顔をして、私をみているのかわからない。山南は私を憐れんでいるのだろうか、それとも、ただいつもの温かな目で見つめてくれているのだろうか。どちらにしても、今の私には顔を上げることはできない。これだけの距離で私の顔を見られたら、山南でなくても気がつかれてしまう。

「そうかな。私にはとても無理をしているように見えるのだけど」
「無理なんて」
 無理なんて、していないときっと私は壊れてしまう。

 それでも山南が私を撫でることをやめないのは、心配しているからだろうか。私はゆっくりと顔を上げながら、山南に向けて柔らかな笑顔を浮かべる。泣かないように、壊れてしまわないように、何も壊してしまわないように。私にはやるべきことがあって、ここにいるのだから。いない人ばかりを思って過ごしても何も変わらないし、私にも何も変えられない。まだ、ここでの私の仕事は何一つ始まってなどいないのだから、音を上げるわけにもいかない。始まっていても、音を上げたりなどしないけれど。

 私を見つめる山南の表情は優しくもなく、憐れんでもいなかった。山南はただ厳しい瞳で、眉根を寄せている。

「葉桜君は、今日はもう戻って眠った方がいいね」
「あと少しでキリの良いところまで終わりますから」
「いや、今日はもう、」
「あはは、今日で全部終わらせられるなんて思ってませんから。あと少し進めたら、終わりにしますよ」
 そうじゃない、と言う山南から視線を反らし、私は清書に向き直る。そして、手に取った筆に私が墨を付ける前に、山南に取り上げられてしまった。

「山南さん」
「休んだ方が良い。ひどい顔をしているよ」
「ふふ、そんな心配しすぎですよ〜」
 でもそこまで言うなら、と私は席を立つ。ここにいてももう手伝わせてもらえないなら、無理を言うこともない。

 ほっとした山南に礼を言って、私が立ち去る方向はもちろん自分の部屋とは正反対だ。気がついた山南が追ってきて、私の腕を強く掴む。

「っ!」
「どこへ行くんだい? 私は、休むように言ったはずだよ」
 山南の声は厳しいけれど、私はそんなもので怯むわけにはいかない。

「まだ寝るには早い時間ですよ。少し稽古してきます」
「ダメだ」
「別に無理をしているわけじゃないですよ。寝る前に稽古するのは習慣で、」
 私の腕を掴む山南の力が強くなり、流石に眉を顰める。

「こういうことは言いたくないんだが、」
「じゃあ言わないでください」
「今日はもう休みなさい。総長命令だ」
 山南にそういう風に言われたら、隊士である私には従うしか術がない。山南はなんて狡い言い方を私にするんだ。

「……わかりました」
 ふて腐れた返事を返す私の腕を掴む山南の手が離された。ここではここの規則に従わなければならないから、私も今の言葉に逆らうわけにはいかない。私は山南の顔を見ないように頭を下げる。

「おやすみなさい、山南総長」
 私は足を自分の部屋へ向け、一度も振り返らず、寄り道ひとつせずにまっすぐ部屋へと戻る。立ち去るとき、かすかに山南のため息が聞こえた気がした。



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