幕末恋風記[追加分]

□(元治元年葉月) 05章 - 05.3.1#消えた傷
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(才谷視点)



 薄闇に光が煌めく。ゆらり、煌めき、赤を撒き散らし、消えてゆく。

「まさか、近藤さんに見つかるとはねぇ」
 葉桜さんは自分の懐から手拭いを取り出し、鮮血の滴る腕を縛った。その場所へ縦に紅い線が走り、血がしたたり落ちている。多すぎるということはないが、かなりの量の血が溢れる腕に片腕と口で器用に応急処置を施しつつ、葉桜さんは夜を仰いだ。

「皆鼻が利くから、本当に気をつけないと」
 痛そうには見えないのに、笑っている葉桜さんの片目から透明な雫がぼたぼたと溢れて落ちる。ただ流れるだけのそれを拭わず、葉桜さんは光が揺らめく水に近づく。

 そこに映る自分の顔をみて、何を想うか、わしにはわからん。

「ったく、なんでこんなことで泣いちゃってんだか。……馬鹿みたい」
 髪が濡れるのにも構わず、葉桜さんは川辺にかがんで、顔を浸けた。ほんの一呼吸で水から放れ、フルフルと頭を振って、水を辺りへ飛ばす。

「哀しくなんてないのに、馬鹿みたい。そう、思わない?」
 誰に問いかけたのか、返ってこない応えに苦笑し、葉桜さんは袖で顔を拭った。わしもこんな夜中に出会う人がいるとは思わなかったが、姿を現すつもりもなかった。近寄りがたい清浄な空気を放っていて、近づくだけで葉桜さんを穢してしまう気がして。葉桜さんのほうでも、あえてわしを引きづり出すような面倒もしたくないのだろう。遠目でも逢いたくないと、空気がはっきりと拒絶している。ならば今は会わないほうがいいのかもしれない。そう思い、そっと踵を返したわしの耳に葉桜さんの優しい声が届いた。

「最近は物騒だから、早く帰った方が良い」
 そんなことはもうここ数年ずっと続いている今更なことだというのに、何故今そう言うのか。わしはもう一度みた葉桜さんの背を追いかける。そう遠い距離でもないので、すぐに追いついたが、その肩に手をかけようとして、寸前で留まった。わしの喉元に、月の光で懐剣の光が怪しく煌めく。

「哀しいから泣いてるワケじゃない。でも、名乗りもしない相手に預ける涙は持ち合わせてないよ。さっさと消えなさい」
「ワシじゃ、葉桜さんっ」
「わかってるから言ってるんでしょ、馬鹿梅」
 懐剣を仕舞い、葉桜さんが振り返るその前に、わしは腕を伸ばす。泣き顔を見られるのがイヤだというのなら、振り向かせなければいい。わしの考えをわかっているのか、葉桜さんは諦めたように深く息を吐いた。

「こんな夜中に、どうしてここにいるの?」
「なんとなく葉桜さんが泣いちゅうような気がしたからちや」
 いけしゃあしゃあとよく言う、といつもどおりの呟きが小さく聞こえて、わしは少しだけ安堵した。

「別に哀しいワケじゃないんだから、ほっときゃそのうちに止まるよ」
 止まるといわれて、わしは思い出す。葉桜さんの濃い色の着物がその袖の辺りだけ既に色を濃くしている。

「痛くないがか?」
「え?」
「せんばんと思い切りよお切ったから、声をかけられなかったが」
 わしが最初から見ていたということの方に驚いたのか、葉桜さんがわずかに身を強張らせた。気配に気が付いたのはきっと血が流れる腕を手拭いで縛っていた時だろう。声一つあげずに自らの腕へ刃を突き立てる姿に、わしは思わず気配を消すのを忘れたからだ。

「見てるわしのほうが痛うて……葉桜さん?」
 姿が揺らいだように見えて、わしは思わず力を込めていた。しかし、それにも葉桜さんは呻き声一つあげない。地面へキラキラと月光に照らされる光の粒が落ちていく。

「慣れてる、から」
 怪我をしていない腕で振り払われて、葉桜さんはわしから一歩間合いを置く。葉桜さんは泣いている声ではないのに、何故泣いているのか。わしの問いに、わからないと葉桜さんはいう。

「それに、こんなんじゃただの気休めにしかならない。私の力じゃ、こんなことぐらいしかしてあげられない」
 これは誰だろうと、わしは一瞬訝しんだ。あまりに、葉桜さんらしくない。常の葉桜さんはとても強く、涙も笑顔に塗り替えてしまうほど強くて。

「葉桜さん……?」
 近くを流れる水の音と木の葉を揺らす風の音をひととき聞いてから、ゆっくりと葉桜さんが顔をあげる。そこにあるのは、わしの知る葉桜さんの満面の作り笑顔。

「ところで、こんな時間にどうしているんだ? どこかへ向かう途中だったのか?」
「……葉桜さん?」
「ああ、まあ、聞いても送っていってやれないんだけどな。もう少しで土方が部屋へ見廻りに来るから戻らないと」
 部屋で寝てないと煩いんだ、と面倒そうにいいながら、葉桜さんは今度こそわしに背を向ける。葉桜さんはいつも世界の全てを受け入れているようで、人間にだけは冷たく厳しい拒絶を向けている。今は特にそれが強い。

 葉桜さんが消えた先をしばらく見つめてから、わしは慌てて追いかけたがもうそこに姿はなく。残り香だけが血の臭いを混ぜて漂い、直ぐに風でかき消された。

 夢だったのだろうか。翌日の普段通りの姿を葉桜さんを見て、わしはまたわからなくなった。ただ風で微かにめくれた袖口に覗く見慣れた傷痕が、妙にわしの気にかかって仕方がなかった。




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