オリジナル

□三作目一話
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「藤川ぁ〜」



名を呼ぶ声に、教室中がピンと張り詰めたのが判った。
今まで雑談で溢れていた教室で交わされる声が、ひそひそとトーンダウンしている。


藤川と、名字を呼ばれた虎太郎は心配と好奇と侮蔑とが様々に入り混じった視線の中、椅子の背もたれに体を預け、優雅に長い足を組んだクラスメイトの前までやって来た。

その男は金に近い茶に、幾筋もの黒いメッシュが入れられている髪を自然に後ろに流し、整った顔を惜しげもなくさらしている。


「な、に?岸君」

同年代の男子に比べて小さく華奢な体を更に小さくさせて、虎太郎は岸龍之介、幼馴染であるはずの男の前に蛇に睨まれた蛙同様縮まりながら立ち竦んでいた。

クラスメイトたちは息を潜めている。
それを申し訳ない、なんて頭のどこかで他人事のように思ったりもする。

「今日は…コーヒー」

それだけを伝えると龍之介は、虎太郎の返事を聞くまでもなく周囲を囲む『仲間』に視線を戻してしまった。

虎太郎は後ろにクラスメイトたちの視線を感じながら走って教室を出た。



一階の食堂脇にある自動販売機までやってくる。
上がった息を整えながら、財布から千円札を取り出す。
くしゃくしゃにしわの寄った千円札のしわを丁寧に伸ばして自動販売機に差し入れた。
ぱっと赤いランプが点く。
迷う事なく、龍之介のお気に入りの銘柄の缶コーヒーのボタンを押した。
がたごと唸らせて缶コーヒーが吐き出される。


取り出そうとしゃがみ込むと共に吐き出された、長い息。
顔を下に向けてしまうと、涙が零れてしまいそうで…
虎太郎は、きゅっと顔を上げながら、自動販売機から缶コーヒーを取り出した。




『藤川』
龍之介が虎太郎をあだ名の『こた』とは呼ばずに、そう呼ぶ時は龍之介にスイッチが入っている時だ。
だから虎太郎も決して『龍ちゃん』などとは呼ばずに『岸君』と呼ぶ。

何も言われていない。何も説明は受けていない。
龍之介は虎太郎が謝罪を求めない事を知っている。
辛い訳ではない、ただ淋しいだけだ。




お互いの事情はお互いこそが、一番良く判っている。
伊達に16年間の時間を共に過ごして来た訳ではない。


龍之介は小学生の頃にはもう既に、背も高く体格も良かった。
更にスポーツも出来、ケンカも強かった。
その『ケンカも強かった』という事実は、やはり小学生の頃も平均より小さかった虎太郎がいじめられそうになるたびに、龍之介が庇って多勢に無勢でケンカをして来た結果なのだが。
ケンカがケンカを呼び、龍之介は『不良』というカテゴリーに属するようになっていった。
中学を卒業する頃には地域で有名になり、高校では見目の良さも相まってか一年生ながらトップに祭り上げられてしまった。

何事も器用にこなしていた龍之介の才能が裏目に出てしまったとしか言いようがない。

いかんせん龍之介は強すぎた。
戻れない所まで来てしまったし、周囲がそれを許さない。
龍之介自身にも戻る気はないようだった。


龍之介が今のままの生活を続けるとなれば、虎太郎は龍之介にとって弱点より他ならない。

龍之介が虎太郎を学校でパシリ扱いをする。
そうすれば必然的に周囲は、虎太郎は龍之介の所有物という認識になる。
この学校に在籍していて、龍之介の所有物に手を出そうなんて輩は現れない。
学校では他人の振り、なんて選択もあっただろう。
けれど虎太郎がイジメの対象にならないとも限らない。
それを放っておける龍之介ではない。
必然的に龍之介は虎太郎をパシリと言う、付かず離れずのポジションに選んだ。

かと言って他校や、他チームからしてみれば学外では接点がなく、学内ではパシリをさせられているらしい男を、弱点として認識するはずもない。
傍から見れば虎太郎がいなくなったとして、新たな駒が出来るだけだと考えるはずだ。

この方法は内外双方に効果的な方法だと言う事は、虎太郎も説明されなくとも判った。


『不良』というカテゴリーに属し、『一年生ながら学校のトップ』の『岸龍之介』の隣に『藤川虎太郎』は立てないのだ。
その実力も実績もない。
傍にいれば虎太郎を守るため、その分龍之介が傷付かなければならない。
それだけは何としても避けたかった。

だから虎太郎は説明もされずに突然始まった今の関係を、甘んじて受けている。

きっかけは虎太郎のためだったのかも知れない。
そんな負い目もある。



龍之介は虎太郎を巻き込まないため。
虎太郎は龍之介にせめて自分が原因のケンカをさせないため。



それでも……


『岸君』が『藤川』を、温度のない冷めた目で見るのを、淋しいと思わないはずがないのだ。


虎太郎は振り払うように勢いよく立ち上がると、前を見据えて教室までの道のりを、また走り出した。



教室に戻ると、龍之介は仲間達と楽しそうに談笑している最中だった。
一つ深呼吸をして、乱れた息を整える。

輪の中心になっている龍之介と視線が合った。
龍之介の真っ黒な瞳、どこまでも闇が続いているような冷えたその瞳に、虎太郎は自分の体温までもが冷えていく思いだった。

『こた』が知っている『龍ちゃん』と同じ目をしているはずなのに、『岸龍之介』は別人だとでも言わんばかりの視線。
捕食者が被捕食者を見つめるような。


「遅せーよ」

視線と同じ、地を這うような冷えた声。

「ごめ…なさい…」

虎太郎が缶コーヒーを差し出す。
龍之介はそれを受け取ると、組んでいた足を解き、そして思い切り机を蹴飛ばした。


がぁんっという金属音と引き換えに、教室が静まり返る。

「次、遅かったら…こうなる。覚えとけよ?」

龍之介の口角が上がり、笑みの形を作るものの、笑ってなどいない。
どこまでも冷えた目がそれを物語っていた。

虎太郎は龍之介に礼をし、周りを取り囲む者達にも会釈をし、その場を離れて行った。












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