夢をみるひと

□Loser【1】
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それはほんの一瞬だった。

むせかえるような熱の篭った、鋭い風に突き動かされて走り出したら確信しか無かった。


あのボールに追いつけるのは、おれだけだ。





* * *



「お前、なんでこんなトコいんの?しかも何、サッカーやるわけ?」


冴え冴えとした青い空が広がる春。岡宮商業高校サッカー部、活動初日。
振り向いたイシカワキヨヒトは背の高いオダシマアツシを見上げ、首を傾げた。

「オダシマだ。お前、イシカワだよな?」
「うん、よろしく」
「よろしくじゃねえ、どうしてこんな高校にいるんだよ?冗談だろ、サッカー部なんて。イシカワ先生のご子息様が」

吐き捨てるように言い、強く睨みつけているオダシマの顔をキヨヒトはじっと見つめる。記憶を探ってみても、秀でた額や意志の強そうな黒い目に以前会った覚えはやはり無い。だが、その目に浮かぶ憎しみや怒りは見慣れたものだった。

「オダシマ建設、って言えばわかるか?」
「ああ…」
「お前んとこの親父が潰した会社だ」

搾り出した低い声に、キヨヒトは平然と頷いて「話があるなら場所変えよう」と歩き出した。部長の話が始まろうとしているグラウンドから2人で抜け出し、部室棟の裏手へ回る。
地元の有力者である政治家、イシカワの手酷い裏切りによって倒産に追い込まれたオダシマ建設のその後はまあ、悲惨だった。
過ぎ去った日々や色んな人たちの姿がオダシマの脳裏に浮かんだ。
優秀な選手が集まる代表チームでプレーしていた中学時代の自分や、ゴールを決めた瞬間のどこまでも舞い上がっていけるような感覚、駆け寄ってくる仲間達、名門スポーツ校や一部リーグのユースチームから来たスカウトマン達の姿、入退院を繰り返すようになった元社長の父親や、まだ幼い弟や、出て行った母親の姿。
それから、こんな高校などでは無くもっとレベルの高い場所でサッカーをしていたはずの自分の姿に、思いを馳せた。

本気で人を殴るのは初めてだった。
奥歯を食い縛って拳を強く握り、左足を勢いよく踏み込んだ。右手がキヨヒトの頬をしっかり捉え、骨と肉が軋む鈍い音を確かに感じた。避けることもせず、目を逸らすこともしないまま、オダシマと比べると華奢なその体は容易に吹っ飛んだ。
ゆっくりと上半身を起こし、血の滲んだ唇を拭いながらも淡々と口を開いたキヨヒトに、ますます頭に血が上った。

「…で?」
「あァ?」
「話ってこれか」

話なんて何も無い。こいつを殴ったところで、過去も未来も何一つ取り戻せない。そんなことは頭では理解していたが、呑気に部活動なんか、しかもよりによってサッカー部に参加しているイシカワの息子を目にし、荒れ狂った感情を抑え込むことなど不可能だった。
左頬にもう一発、捻じ込んだら余計に苛立った。乱暴に胸倉を掴み、引き摺るようにして立たせる。息を詰まらせ微かに呻いたキヨヒトと視線が合い、ふと湧き上がった疑問を口にした。

「やられっぱなしかよ、お坊っちゃん。抵抗しねえのか」

キヨヒトの首が肯定に動くのを、ただ見ていた。
身長も体格も、自分の方が明らかに勝っている。このまま腕力で痛めつけることなど造作無いことはわかりきっている。

「びびって声も出ねえか?!てめぇの家がやった事を解ってんなら詫びくらい言えるだろうが。ふざけんなよ、殴り返すくらいしてみせろ!」
「…殴られたこと、忘れるくらいはしてやる」
「何だと?」
「他にしてやれることは何も無い」
「………どういう意味だ」

問いかけはしたものの、頭のどこかでオダシマも理解していた。
痛みに顔をしかめながらも、その目は冷静なままだった。何の感情の波も無い。強いて挙げるなら、諦念だろう。

「そのままの意味だ。“イシカワ”が殴り返す力はでかすぎるだろ。本当に謝られたいなら謝るけど」
「……今更詫びなんか要るかよ、クソが…お前を殴り倒しても、社会的に倒されるのはおれの方か。イシカワ大先生の力で、高校なんか即退学だ」

話し合いも暴力も誠意も、何の役にも立たない。過去を覆すことなどできるはずもなく、どうあがいてもオダシマは敗者だった。
キヨヒトはこれまで何度となく憎しみや恨みをぶつけられ、そしてそれらを全部受け止めてきたのだろう。謝罪も言い訳もしない。逃げもせず報復もしない。勝者の余裕とでも呼ぶべきなのだろうか。

(せめて黙って殴られてやるなんて、正気じゃねえ)

冷静過ぎるその目が、空恐ろしかった。
握り締めたままの自分の拳が、いつの間にか震えていた。

「馬鹿にしやがって…」

掴み上げた手を離すと、キヨヒトは頭を振って髪についた砂を払った。
立ち尽くすオダシマを残し歩き始めたが、ふいに振り返り声を上げた。

「今日は一年だけで試合だって。もう始まってるかも、急ごう」
「……は?」
「オダシマってキーパーか?」
「違ぇし。でかいからって決め付けんな、FWだ。つーかサッカーやったことあんの?」
「FWか」
「話流すな、知ったかぶりすんな。ポジションとかわかってねえだろ、その顔は」
「わかってるよ」
「じゃあお前ドコよ」
「さあ…前の方にいるのが、好きだ」

好きか嫌いかで聞いてねえし、前の方って一体どこだ。自分を全力で殴った人間と何食わぬ顔で会話できるなんて、本当に頭がいかれてるんじゃないか。
腹の中でキヨヒトをなじりながらグラウンドに戻ると、先輩達や監督の姿は既に無く、一年生同士の試合が始まっていた。
手前に居たキミドリ色のビブスの2人をキヨヒトが手招きし、声を上げる。

「審判、笛!」

審判をしていたユタカは一瞬目を瞠ったが、声の主を認めると呆れたように肩を竦めた。
笛が響き、目を白黒させている2人に「交代だ」と告げたキヨヒトは、ビブスを半ば無理矢理奪う。いきなり投げて寄越された一枚をオダシマは慌てて受け取って、急かされるままに身に着けた。

「行くぞ」
「っじゃねえよ、どういうつもりだ!」
「オダシマ、FWなんだろ。シュートが一番、気持ちいいよな」

それだけ言い置いて、キヨヒトは前線へ走り出した。あっという間に遠ざかる背中。その俊足を目にしたせいか、オダシマは我に返って後に続いた。

(この三年間だけは思う存分、おれはサッカーを楽しむんだ。あんな訳わかんねえ奴、構うだけ時間の無駄だ)

舌打ちをしながらポジションにつき、周りの状況を確認したのとほぼ同時、すぐにボールが動いた。
パスを呼んだキヨヒトがキープせず、弾いたのだ。
弾いた先には誰もいなかった。とんでもないミスキック。
キーパーが飛び出そうか迷う仕種をみせたが、距離があり過ぎた。





それはほんの一瞬だった。


迷ったり考え込んだり躊躇ったり、そんなことをしている暇は無い。

キヨヒトがゴール前に弾いたボールが、まるで熱を帯びているように感じられた。

衝動に突き動かされて、オダシマは走り出す。


後ろから一人、横から二人、走ってくる。キーパーが姿勢を整える。
それらを全部置き去りにして、ボールをまっすぐ蹴りこんだ。
ボールがネットを揺らしたのを確認して、オダシマは思わず小さくガッツポーズしていた。
我ながらよく追いついた、あんなミスに。咄嗟だったけど、湧き上がったイメージ通りに回転がかかった中々良いシュートだった。

歓声を上げて駆け寄ってきた同じチームの奴らの間から、キヨヒトを振り返る。初っ端からの派手なミス、頭のいかれた下手糞、あんな奴にサッカーをやる資格なんてやはり無い。
目が合ったような気がしたけれど、怒鳴りつけてしまいそうだったからすぐ逸らす。

(しかし一体なんだ、さっきのあの、感覚は)

お互いが思い描いたプレーが、ガッチリと噛み合い機能し得点に繋がったとき、サッカーが与えてくれる最上級の気持ちの良さ。その興奮に勝るものなどオダシマは知らない。
練習を積み重ねてきたチームメイトとのプレーであれば時折訪れる歓喜の瞬間だが、今は状況が違う。


不思議な余韻は、急に飛んできたボールに霧散した。

(ヤバイ!追いつけるか?!)

散漫になっていた意識を掻き集めて全力で走る。
なんとか食らいついたが、この体勢ではシュートは無理だった。今度はディフェンスもしっかり追いついて来ている。ボールを寄越したまま後ろに下がっていたキヨヒトには一人、ディフェンスが付いていた。他のディフェンスとキーパーの注意は、ほとんどオダシマに向いていた。それだけ確認し、タッチ一回でボールを前方に送り込む。ほとんど直感だった。

普通に考えたら絶対に追いつけるわけが無い、だけどシュートを打つにはこれ以上無い、絶好の位置へ。




それはほんとうに、瞬きをしたかさえも定かでは無い、一瞬。


視界の端で、風が吹き始めるのをオダシマははっきりと見た。

ボールはいつの間にか、ゴールに吸い込まれていた。
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