週末明暗京―文かたり―

□かくいうものも
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 どうしようもなく悲しくて悲しくて仕方なかった。父を失い、預けられた先の祖父ももういない。

――私は、後ろ盾を失ったのだ。

 そう自覚してしまうと、何もかもがどうでもよくなってしまった。もう出世も望めない。この世界では生きていくのが難しい。明日を肩身の狭い中で生きることがとても辛い。

 嗚呼、このまま袿の中で私の体が冷たくなってはくれないだろうか。目を閉じた。そんな事は起こらないと思いながら。

 ふと気がつくと、周りは薄い霧に包まれていた。耳を澄ませば、その霧の向こうから幽かな水の音がする。もしかして、ここは三途の川のほとりだろうか。私は、死んでしまったのだろうか。もう辛い俗世にいる事はないのだろうか。

 そう思うと、悲しくもあり、切なさもあった。不思議と嬉しくは思わなかった。こんなにも望んでいたことなのに。

 人の声が聞こえた。私ははっとしてそちらへ振り返った。死者を呵責するという獄卒ではないかと思ったのだ。霧の中から現れたのは、鬼でもなんでもなかった。ごくごく普通の人であった。

 その人は私を見て納得したように頷いて首を傾げた。

「一体どうやってここまで来た?」

 覚えていない。気がついたらここにいたのだから。返答に迷っていると、相手は更に質問を投げかけてきた。

「名前は?」

「藤原行成、と申します…」

 それだけ聞くと、踵を返して肩越しに振り返った。慌てて追いかけようとしかけてそのままの姿勢で止まる。

「行成。私は小野道風という。とりあえず私の庵に来い」

 小野道風。それは私が以前より憧れていた人の名だ。


 小野道風とは私が生まれる5年前亡くなった人だ。野相公を祖父に持ち、小野好古を兄に持つ。その優雅な筆跡は醍醐帝に深く愛された。

 書道の神だ。

 少なくとも私はそう思っている。周りの人に彼の話を伺うことも多かった。彼の話を聞けば聞くほど、私は彼の書に夢中になった。憧れた。一度でいいから会ってみたかった。


 しかし、すでに彼はこの世にいない人。その事実は私を落胆させた。それがこんな形で実現するとは。

 道風様の庵にお邪魔させて頂く。庵は、篠竹の竹垣で囲まれた小さな庭があった。高い官位の貴族の庭とは違う。遣り水も無ければ、蹴鞠のための懸も無い。剥き出しの地面に短い雑草が生えただけの庭だ。

 それらを横目に見ながら、庵に入る。庵の中はこざっぱりと片付けられている。余計な物は何も無い。

 ここで道風様は生活しているのだろうか。憧れの人の生活空間に入れさせて貰えることが嬉しくて嬉しくて、今にも踊りだしたい気分だ。もちろんそんなことはしないけれど。

 座るよう促されたので座る。道風様は棚から何かを取り出している。しばらくして道風様が取り出してきたのは、料紙。あまり上質な物ではないが、それでも質はいい。

 それを床に広げる。何故か私の前にも同じように用意をする。次いで取り出したのは二揃えの書の道具。まさかとは思うが、私に書を書けとおっしゃるのではないのだろうか。私など道風様の足元にも到底及ばないというのに。

 すっかり用意の終わった道風様は満足そうに一つ頷くと私を見た。

「何でも良いから書け」

 予想はしていたものの、狼狽える。

「ですが…」

 私の言葉を道風様は遮った。

「下手だろうが私は構わない。折角用意したのだから」

 そう言われては断れない。墨に筆をつける。白い筆が墨に染まっていく。この瞬間が私は好きだ。白い何かが別の色に染まる瞬間が。書きたい、という衝動のみに突き動かされ、私は夢中で文字を書く。仮名で歌を書いていく。

 先日の宴にて詠まれた歌。まだ若い官人の歌だが、私は深く感銘を受けたことを覚えている。

 最後の一文字を書き終えて、筆を置く。納得のいく出来だった。そういえばここ数日というもの、こうして集中して何かを書くなど仕事以外でなかった気がする。

 顔を上げると道風様と目が合った。途端に自分の拙い書が恥ずかしくなって俯く。

「良い字だ」

 道風様の言葉に瞠目した。今、道風様は何と言ってくれたのだろうか。良いと、言ってくれたのだろうか。

 恐る恐る道風様を見れば、長い間探していた物を見つけたような表情をしていた。

 私を振り返り、道風様は言った。

「お前はまだ伸びる。そうだな、私が書を教えようか」

 夢なのか。いや、夢だが。道風様に書を教えて頂くなんて。嬉しすぎて心臓が止まりそうだ。いといみじ。

「お前は、どうしたい?」

 もちろん私は二つ返事で了承した。

「よろしくお願いします!道風様!いえ、道風師匠!!」

 対する師の答えは、

「し、師匠…?」

 というものであったが、私は構わなかった。


 というのが私と師匠の出会いで馴れ初めである。

 私は今も時折、夢の中で師匠の庵に赴いては師匠と世間話をしたり一緒に書を書いたり書を教えてもらっている。

「最初会った時はもっと謙虚で良い奴だと思ったのに、どこでどう間違ったんだろうか」

「そうですか?私は最初からこんな感じでしたよ?」

「最初からこんなうっとおしい奴なら声すら掛けなかった!」

「酷いこと言わないでくださいよ」

 かくいうものの、私は、楽しいときを過ごしている。

 夢の庵にて憧れの師と。
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