週末明暗京―文かたり―

□安殿様と叔父上様
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 私には、叔父上様と呼ぶ人が物心ついたときからそばにいる。


「ここにおったか。見つけたぞ、安殿…!兄上を絶望の淵に陥れるために再び病となってもらう…!」

 几帳の隅の暗闇から怖ろしい、低い声が響く。そこの影からゆらりと現れた人影は私をぎらつく眼で凝視した。

「ひっ…!」

 恐怖に体が竦んで動けない私は膝に掛けてあった袿を必死に握り締めただ泣くしかなかった。


 誰もいない時に暗い物陰などから突然現れ、恨みで眼をぎらつかせる叔父上様が、最初は堪らなく怖ろしくて叔父上様が来ると泣き出して体調を崩してばかりいた。あの頃はまだ叔父上様がただ害を為すだけの者と思っていた私はただ袿の裾を握り締めて泣きながら震えて側近を待っていることしか出来なかった。

 しばらくすると私も叔父上様の来ることに慣れ、少しずつ会話をするようになった。

 そのことを父に話すと顔が青ざめて祈祷だなんだと騒ぎ出すので最初に言ったきり二度と話していない。

 叔父上様は、名を早良と言う。私が皇太子になる前の、皇太子。私の叔父なので父の実弟にあたる。叔父上様は藤原種継暗殺に関わったと父に疑われ、無実の罪であったにもかかわらず流罪に処され、配流される間食を断ち憤死した。最後まで、父は叔父上様を信じようとはしなかった。

 そうして叔父上様は今、祟りをなす怨霊として私の前に現れている。私を病に罹らせ父を困らせるためだそうだ。と言うのが当初の理由であった。しかし今は、私を病にすることもほとんどなくなり、もっぱら昔の話をするためだけに私の元を訪れている。

 初めて叔父上様と会話したのはいつだっただろうか。確か、私が8つの頃だったような気がする。叔父上様ならもっとはっきりと覚えているに違いない。



 叔父上様が私の元に現れるようになってから3年が経とうとしていた。いつものように側に誰もいなくなってから叔父上様は物陰から現れる。

「安殿…!」

「ひっ…!……さ、さわら様はどうして僕の元にくるのですか…っ!」

 それだけ必死に言うと私は泣き出した。

 叔父上様は虚を突かれたような表情で言ったのだ。

「安殿、何故吾の名を知っている?兄上に聞いたのか」

 その声は普段の怖ろしいものと違う、普通の人間の声と同じ穏やかさを持っていた。



 それからだ。私は少しずつ叔父上様と言葉を交わすことが増えていった。叔父上様も頻繁に現れるようになっていった。病弱な体なので話すことは少なかったが、叔父上様が平城京での思い出話をしてくれることがほとんどだったので話題には困らなかった。

 時折、父への怨みつらみを吐き出すこともあったし、異母姉弟の話をしたりしてくれたこともあったし、死んだ後に見た素晴らしい景色の話をしてくれたこともあった。

 そういえば以前、私のところにいない時はどこで何をしているのかと問うたところ、

「他の怨霊と喋ったり、他戸と喋ったり一緒に酒人の所に遊びに行ったり、兄上に見えてないのをいいことにボクシングの真似事やったり兄上の荷物隠したり兄上の椅子ずらしたり兄上にひざかっくん仕掛けたりしておる」

 と言う、なんともいえない回答が返って来た。このときばかりは、いつも煩わしいと思っているだけの父に同情した。



「安殿?」

 いつの間にか、叔父上様が来ていたようだ。今日は珍しく、叔父上様だけでなく他戸様も来ている。

「叔父上様、いらっしゃってくれたのですか。今日は酒人内親王様のところへ行って来たのですね?」

 他戸様が楽しそうに笑いながら答える。

「ついでに義兄上に木の根に躓いたように見せかけて跳び蹴りをかましてきたんだ。あれは面白かったよ〜」

 生きていれば私よりも年上のはずだが、15歳で成長が止まっているために、言動も幼く思える。それにしてもよく笑う方だと思う。

 叔父上様もその隣で腹を抱えて笑っている。

「見事に顔面から転んでおったな。いい気味だ」

 顔面からか。

 顔面から地面に倒れる父の姿を想像し、私も吹き出す。本当に、叔父上様たちといると退屈なんてない。

 かたりと、妻戸が音を立てた。

 一瞬にして叔父上様たちが影の中に溶け込んだ。

「安殿様、誰かいらっしゃるのですか?」

 入ってきたのは真夏だ。同い年で私の乳兄弟だ。幼い頃から一緒にいる。それこそ叔父上たち以上に。

「いいや、私一人だ」

 真夏には叔父上たちが視えていない。下手に何かを言って心配させたくはない。ただでさえも真夏は人一倍病弱で脆弱な私のことを案じてくれているのだから。

 真夏は少し笑って頷く。

「そうですか。そろそろ日が落ちて冷えてきましたので袿をお持ちしました」

「ありがとう」

 振り返れば、妻戸の影がゆらりと動いて優しげに笑った気がした。

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