小説

□絶痛絶苦
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頬に、さっと熱が走る。
そこからどろりとした液体を感じた。
引っかかれた場所は出血をしているらしい。

「え、あのいま、よし…さ」
「いややいややいやはなしてはなしてはなしてはなしていやあああああああああ!!!!」

オレの事なんて、視界に一切入ってない。
ただひたすらに目の前の存在を拒絶し、暴れるだけ。
それは形容し難い人間の鳴き声だった。
何も聞こえない。
その音にすべてが掻き消されて、いやに静かだ。
その叫び声は鼓膜を破るのではないかというくらい煩い筈なのに。

「今吉!!」

更衣室に飛び込んできたのは、先程までは気絶してた諏佐さんだった。
回復したのか、と現実逃避なのかそんなことを思った。
諏佐さんの目にも、オレの姿は一切入ってなくて。
一目散に今吉サンへ駆け寄った。
あれだけ血を流したのだからまだふらふらするだろうに。

「いややいやっや、いややいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい」
「今吉、今吉!!」
「いやはなしてはなしてはなしてかみさまかみさまかみさまたすけていたいいたいいたい」
「大丈夫だから、もう大丈夫!誰もお前のことを傷つけたりしない!俺が誰だか言えるか!?」
「ああ、うぁ…あ、うぇ……す…さ?」

嗚咽を漏らしながら、今吉サンは目の前の人物を理解する。
すると、今度は泣きじゃくって諏佐さんに縋り付いた。

「ごめ、なさ…っごめんなさい…っく」
「今吉は何も悪くないよ」
「いいこにしとる、いいこにしとるから…ぶたんといて…っだして…ぇ!」
「今吉はいい子だし、此処は外だ」
「たすけて、たすけて…ここいややこわいくらいさむい」
「もう今吉をいじめる奴はいない、大丈夫…大丈夫だから」
「……っほん、ま?」

子供をあやすように諏佐さんは今吉サンのことを慰める。
諏佐さんが深呼吸して、と言ったので今吉サンはたどたどしく呼吸を試みた。

「……っぐ、…ぅううう」
「ひとつひとつ、全部やろうとしなくていいから。まずは呼吸だけでいい」

諏佐さんがきつく抱き締めて、今吉サンに先を促す。
す、す、はー。
彼は呼吸という動作をやっと思い出したみたいだった。
そこから、強張った手足を少しずつ弛緩させていく。
酷く体力を消費した今吉サンは、今度はただ静かに涙を頬に流し続けた。
本人に自覚は無いらしく、瞬きの回数が異常に少ない。
諏佐さんにしがみ付いたまま、顔だけ離す。
大きく開かれたその眼は驚くほど死んでいた。

「すさ…怪我しとる、それ……どうしたん?…わし、のせい?」
「…いや、ちがうよ」
「ごめ、な。…なあ、いたい。いたいよ」
「ん、…薬のめるか?」
「…持っとらん」
「じゃ、俺の取ってくるからここで」
「いや。一人にせんといて…!」

またぐずりはじめた今吉サンを宥め、二人でこの場を去ろうとする。
そこでやっとオレの存在に気付いたらしい諏佐さんは、軽蔑とも敵視ともいえない目でオレを見た。
それも一瞬のことで諏佐さんは今吉サンを抱えてすぐに出て行った。
発狂してから、今吉サンはオレの存在に一切気付かなかった。

(なに、やってんだオレ…)

一人残された更衣室に立ち呆ける。
あの二人の世界に。
俺の入る隙間なんて、最初から最後までどこにもなかった。
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