「孔雀の羽団扇の行方」の部屋

□鳥の巣 その1 書架の匂い
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 「今日はお供の方は
ご一緒ではないのですか?」

「ああ、今日はひとりなんだ」

「では、お屋敷にお届けに上がりましょう」

「いや、それには及ばない。
すまないが、紐を掛けてくれるか?」



天井まで届く、ぎっしりと本を並べた
大きな書架を無理に両側に並べた為に
間口が狭く、その分奥行きがある
薄暗い書店の前を通り掛かったとき
その奥の方から、かすかに
懐かしい声が聞こえて来て、彼は足を止めた。


店主らしき男と会話を交わしているのは
低くかすれた、それでいて
甘さの混じった独特の声で
それを、聞き間違える、などということは
ありえない。


彼は、思わず嬉しさで頬がこわばるのを
感じた。


ベルサイユでは、いつもどこかで
ばったりと出会ってしまう予感はある。


実際、婚約が解消された後も
幾度か出会って言葉を交わしている。
遠くからその姿を眺めるということは
それ以上にあった。その度に


「愛しい」


と思う。

彼女への想いは少しも薄れてはいないと思う。


「苦しい」


とも思う。


あの、憎しみあったり
罵りあったりした末に別れる男女の仲という
ものでもなかった。

そのような激しい葛藤が、彼女との間にあれば
どんなに良かっただろう
と思うこともある。


しかし、あの矢車菊の色の瞳が
少しでも屈託に翳ったりするのを見たくはない

その為に身を引くということは
自分で選択した事なのだからと
いつも自分に言い聞かせてきた。


しかし、何の心構えもないときに
愛しい女に出会うということが
こんなにも懐かしく嬉しいことだとは。



「では、そこまで
お持ちいたしましょう」


「ありがとう、ここでいい」


膠や胡桃材の書架の匂いのする薄暗い店先から
ぽっかりと明るい金色の頭が現れた。


彼女は片手には大きな白い紙の箱を
反対の手には、蝋引き紙で包んだ上から
紐を掛けた本の包みを下げて
軽くよろめきながら出てきた。


ごく目立たない灰色の上着と絹のシャツ
といったくつろいだ姿だったが
重い肩章つきの軍服を脱ぐと
かえってバランスを欠いてしまう
あの休日の軍人のような、とでも
形容すればよいか
どこか平衡感覚を失った人のような
頼りない様子だったので、彼は


『おやまあ、軍人ともあろうお方が
両手をふさいで』


と心の中で苦笑した。



「オスカル様」


「ああ、ジェローデル少佐」

彼女が顔を上げた。


そして彼女も意外な場所で出会った驚きや
懐かしそうな様子を取り繕いもせずに
ひどく素直に微笑んだ。



────憎しみあったり罵り合ったりした末に
別れた男女の仲ではないからこそ
また、こうして、ふたり
笑顔で出会うことが出来る。



「重そうですね」


「平気だ。持ち帰って、すぐ読みたかった
ものだから」


「お持ちしましょう。
本はしだいに重くなってくるものです。
それになんだか、お疲れのようだ。
馬車を待たせておりますが
よろしければ、お送りしますよ」


「・・・ありがとう」


一瞬、躊躇した様子だったか
彼女は素直に荷物を彼に手渡した。

実際、朝早く気まぐれに屋敷を出て
辻馬車を乗り継ぎながら
パリまでやって来てしまったせいか
疲れを感じていた。

この頃、少し、疲れやすい。


「こちらの箱もなかなか重い。中身は?」

「バグラヴァ。母の好物なんだ」


蜜に漬け込んで、砕いた木の実を
たっぷりまぶしつけた黄金色の焼き菓子は
見た目は軽そうに見えて、こってりと甘く
そしてずっしりと重い。


階段を下り、パレ・ロワイヤルの歩廊に出ると
昼過ぎの、そろそろ人の流れや服装の
変わり始める頃で
その流れに逆らって歩いていく
ふたりのすらりとした貴公子は
地味な街着にやつしていても人目を引いた。



「今日は、お連れの方は?」

「お連れの方?
ああ、アンドレのことか」


彼女は一瞬、取り乱したような
ひどく迷惑そうな顔をした。
そして


「今日はひとりで来た。
なんだかひとりで出かけたかったから」

と言った。




       鳥の巣 その2 につづく 



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