「やさしい雨」の部屋 2

□午後からの雨 前編
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 「きっかけがつかめない、だけでは?」


象牙のビショップを摘み上げながら
院長は彼女に言った。
彼らは院長の居間で
象嵌細工のチェス用の小卓子を
囲んでいた。


中庭を眺めながら談笑できるように
二脚並べられた、褪せた布張りの安楽椅子も
足元に敷かれた擦り切れた毛織の
ペルシャ絨毯も、胡桃材の書架も
全てが古びていて、そしてそれぞれの物が
ふさわしい位置を得ているという気がする。
この部屋に居ると
彼女は心が落ち着くのだった。
一方、この療養所の自分の居間には
心から馴染めるという気が
いつになっても、しなかった。
その事を、以前に、院長に
打ち明けたことがあった。
すると、院長は微笑みながら


───それでいいのです。
そうでないと困ります。
わたくしと違って
奥様はいずれ、ここを旅立たねば
ならないのですから・・・


と、言ったのだった。



「・・・きっかけ!?・・・」

「そうです。きっかけです。
人の行動を、後押ししてくれる
何か、の、ことです。
その、きっかけがつかめないだけ
なのでは?」


「・・・そうかもしれません」


「ほう、奥様にも
そのように、なりたいという意志は
おありである、ということは
解りました。
では、ご自分では、踏み出せないという
理由は、何でしょう?」


「たぶん・・・恐れているので
お互いに、踏み出せないのだと
思います」


と、彼女は苦笑しながら言った。


「・・・何を、恐れていると?」


「お互いが、相手の唯一無二の存在に
なることをです」


「ほう・・・
なかなか不思議なことを
おっしゃいますな。
それこそ、まさに、惹かれあう男女が
相手に望むことでは、ないでしょうか?」

そして「今日は止めましょう。
どうも、ご気分が乗らないようだから」
と言ってから
院長は側らの卓子に用意された
サモワールからポットを下ろし
茶碗に注ぐと彼女に手渡した。


彼女は、一口啜って、その熱く濃い味に
目を瞬たせた。
そして、言った。


「そうですね・・・
その・・・うまく言葉で説明することは
難しいのですが・・・

彼は、恐らく天涯孤独の身で・・・
わたしも、同じようなものです。
だから、きっと、お互いに・・・
重いんです。

たとえば・・・わたしは
彼の良い家族になれるでしょうか?
・・・自信がありません」


「そのようなことは
なってみてから悩んでみても遅くは
ないのでは?
そのようなことより
愛されているという事実の方が
大切なのでは!?
こうして、飽きずに通ってくるということは
熱烈に愛されているからだと
なぜ、素直にお考えになれないのでしょう!?

では、なぜ、そのように愛されているのに
自信がないのか、一緒に考えてみましょう。
・・・それは、実は奥様の方の
問題でしょうか?

亡くなったご主人を忘れられないから?」


「それはまた、別の問題です」


と、彼女は顔を赤らめて言った。



───自分は
ひとりで生きて行くということを
考えてはいなかったから
それから先のことも考えていなかった。
それなのに、彼は、わたしが
ひとりで生きて行けるように
何もかも整えて置いてくれた。
そして、ひとりで逝った・・・。


思いに沈んでしまった彼女に向かって


「奥様の場合
新しい男と関係を築いていくという事は
過去を呼び覚ますということにも
つながるのでしょう。
ですから、それを、無意識のうちに
避けていらっしゃるという事は解ります。
しかし、過去を掘り起こすという
つらい作業も、なにか贈り物を
もたらしてくれることも、あるのですよ。
だとえば、教訓です。


いずれにしろ・・・
人生は、進むにしろ留まるにしろ
結局、自分が決断しなければなりません。

どうか、勇気を持って」

と、院長は言った。


       午後からの雨 後編につづく

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