「やさしい雨」の部屋 2

□楽器
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 ───ベットを共にしていないうちは
その男を解ったとは、言えないわね。


───あら、男がベットでは
別の生き物になる様を想像しているの!?
うふふ・・・そうではないのよ。

───ベットを共にした男はね。
女に別の顔を見せてくれるように
なるのよ・・・。


かつて、ある年上の貴婦人が
そのように彼女、に語ったことがあった。


自分も、今、この男に、別の顔を
見せているのだろうかと思った。
自分も知らない顔を・・・。


その男の手は、やさしかった。
 

性急でもなければ
荒々しくもなかった。
暖かくて、どこまでもやさしく
いたわりに満ちていていた。


しかし
あの初めて出会ったころから

粗野な言葉を投げつけられ
憎しみのこもった目で睨みつけられ
ろうそくの火で焙られるという
酷い仕打ちを受けながらも

自分は、この男の本性を
すでに見抜いていたような
気もしていた。


窓に打ちつける風と雨の音を聞きながら
彼女は目を閉じて、いつしか
その大きな手に、身をゆだねていた。



 そして、気がつくと
その男の手はいつの間にか
彼女の夫であった男の手に変わっていた。



それは、別の男の身体を借りた、彼だった。



どんなに打ち消そうとしても
抵抗しようとしても
その幻覚から逃れることは出来なかった。


いつのまにか
身体は、心のよりどころでは
なくなってしまっていた。


男の指に触れられた身体の
おのおのの部分は
すでに勝手に応えを返し始めていた。
弾かれて震える弦のように。


応えながら
無条件の幸福と言うものは
この世にはあり得ないように
甘さには苦さが混じっているように
官能には悲哀がつきまとうように
歓びもまた
苦痛を伴いながら
やってくるものだということを
彼女は思い出していた。


そして、そこには
どこかで覚悟を決め
落ちるところまで落ちていこうとしている
自分が、いた。


そして、そこには、また
溺れ、落ちていく自分を
冷たく見下ろしている自分が、いた。





背を向けて
眠っているふりをしながら
そっと涙を流している彼女の髪を
やさしく撫でながら



───初めて、会ったときから好きだった


と男は言った。


───憎悪を装ってでも
見つめていたかった。


───自分の物ではないと諦めてはいても
無関心を装っていても
目をそらしているなどということは
どうしても、出来なかった・・・。



男は、静かに語りかけてくれていた。
女が感じている夜の闇の重さを
少しでも多く、自分が引き受けてやろうと
するかのように・・・。





 「・・・・聞いているの!?」



「え」

気がつくと、赤みがかったブロンドの巻き毛の
若い男が立っていた。
彼女は回廊の隅に置かれたベンチに座って
ぼんやりと中庭に目を据えていたのだった。

「それにしても・・・
夕べの、あの嵐がまるで嘘だったみたいに
綺麗な青空だね。
ああ、あちらこちらで木が、なぎ倒されてる。
今日はジョルジュ爺は大忙しだ・・・。

・・・今朝は、なんだか上の空だね。
うふふ・・・まったく・・・
あなたは、あの愛人にも、いつもそんな
顔を見せているの?
そんな切なそうな顔を見せられたら
男は、きっと命を投げ出したくなって
しまうのだろうね」



揶揄するように言いながらも


───この人は、見るたびに
美しくなっていく。
まるで萎れていた花が水を与えられて
ゆっくりと起き上がりながら
色と香りを取り戻していくのを
見ているようだ・・・


と、彼は思う。


「わたしに、用とは?」


苦笑しながら彼女が問うと
若い男は言った。


「わたしにヴァイオリンを
教えてくれないかな。
院長が言うには
あなたは名手だそうだね」

「それほどでも・・・
どうして急にそんなことを?」

「古道具屋でね。
古いヴァイオリンを見つけたんだ。
ところどころ磨り減っているのだけれど
なんとも言えない風格があってね・・・
思わず手に取ったら
店主が声を掛けてきて

『お目が高い、それは凄い掘り出し物だ』

って言うんだ。

なんと『ガダニーニ』だそうだ。
わたしには楽器の目利きの才能も
あったのかな?」


「・・・愉快な店主だな・・・」


彼女が苦笑すると

「何だっていいじゃないか!?
わたしが気に入ったのだから」

と、若い男は、すこしむっとした顔をして
言い返してきた。


「たしかに、アルマンの言うとおりだな」


「そうだろう!?

ねえ、その楽器が、どんな工房で作られ
どんな人の手を経て
古道具屋にたどりついたのか
そして、わたしの元にやってきて
今度は、どんな音色で奏で始めて
くれるのだろうって・・・
そう思うと、何だかわくわくしてこない!?

どんな名工の手による楽器だって
誰の手にも触れられないうちは
ただのつまらない木の箱に過ぎないのでは
ないかしら?

人の手に触れられ、弾き込まれていくうちに
深く美しい音色を奏で始めるものでは
ないのかなあ!?」

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