「やさしい雨」の部屋 2

□小さな種
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 金木犀の香りが流れてくる。
プラタナスの街路樹が黄色く色づき
鋪道にも葉を落としている。


風は少し冷たかったが
日差しは明るく暖かかった。


鄙びた町の、小さな広場に面したカフェの
歩道にはみ出して並べられた椅子に
並んで坐っているふたりの若者の姿は
どういうわけか
カフェの前を行き交う人々の目をひいた。


一方は、金髪に地味な灰色の外套
もう一方は赤みがかった金色の髪に
派手な濃緑色のビロードの外套を纏い
それぞれ長い脚を組んで
ゆったりと坐っている。


それを、特に無遠慮なものたちは


「いったい、どういう二人連れだろう?
えらく、派手だな」

「たぶん、ほら、丘の上の療養所の・・・」

「ああ、そうに違いない。
どう見ても、あれは土地の者じゃない」



などと、囁きあいながら
通り過ぎていくのだったが
そんなことには、お構いなしに
ふたりの方も
坐って語り合う男女や
通りを行き交う人々を
のんびりと眺めているのだった。


彼らが坐っている三つ先の卓に
若い男女が向かいって坐っている。

若者の方は駆け出しの書記
娘の方は、小間物屋の店員か
お針子といった風情。
そして、娘が若者のクラバットを
直してやっている間も
若者が、娘のずり落ちかかった
毛織の肩掛けを引き上げてやっている間も
ふたりは片時もお互いから目を離そうとは
しないのだった。


そこだけにだけ
可憐な花が咲いたような印象に、彼女は

「微笑ましいな・・・」

呟いた。


「ええ・・・

でも、彼らは
正確には相手の瞳に映る
自分の姿を見ているのですよ。
今はまだ、相手の瞳に映る自分の姿に
酔っているんだ。
泉に映る己の姿に恋をした
ナルシスと同じです」


「ほう・・・
いつもながら、手厳しいな
アルマンは」


彼女は、苦笑しながら
アルマンとモリゾ氏が
ベンチに寄り添って座り
中庭を眺めている姿を思い出した。


「ねえ・・・」

赤みがかったブロンドの髪の若者の方が
口を開いた。

「ところでわたしは
あの恋人たちの『見つめあう』と
男と女が『見る』ということは
何かこう・・・
根本的に違う行為だと
感じているのだけれど・・・」


「ん・・・?」


「『見る』とか『見せる』ということは
何か、こう・・・
もっと赤裸々で
烈しい行為ではないだろうか?
って、思うんだ」


彼らのすぐ前にいる恋人たちは
触れ合わんばかりに
頬を寄せ合っていたが
若者の方が娘の耳に
何か可笑しいことを囁いたようで
娘は急に、白い喉元を仰け反らせて
けたたましく、笑い出した。


彼女は、それを横目で眺めながら
少し考え込んでいたが


「・・・そうだな・・・
言いたいことは
何となく、解る気がするよ。

お互いを烈しく見るという事は
何か、鋭利な刃物で
肉を抉りあうような、そういう
もっと、残酷で痛みを伴った行為だな・・・

そして、そういう
本当に烈しく「見る」という瞬間は
人の一生のうちに、そう、何度も
ないような気がする・・・
たとえ、親子であっても
夫婦であっても・・・。
だから、ほんの一瞬のことなのに
いつまでも、覚えているのかも
しれないな・・・」


と、言った。


赤みがかったブロンドの男の方は
パイ菓子を摘み上げ一口齧って
口元に付いた粉砂糖を
ゆっくり手巾で拭ってから


「ことに、それが男と女の場合には
ただの男と女になってしまう。

たとえば、身分や立場だとか
自分たちが今
華やかな夜会の広間にいる、とか
雑踏にいる、とか
男の肉体を持っているから男だ、とか
女の肉体を持っているから女だ、とか
そういうことさえ、意味を
なさなくなるような・・・
もっと根源的な意味での
男と女を晒しあう・・・

たしかに残酷なのだけれど
後から、思い返してみれば
人生の中で燦然と輝いている・・・
そういう瞬間では
ないのだろうかって・・・

わたしは思うんだ」


と、言った。


「・・・ふふ・・・
アルマンが、そう言うと、たしかに
説得力があるな」


彼女は茶碗を取り上げ、一口啜った。



───そう・・・

あの夜
薄暗い部屋の中で
恐ろしいような力で腕をつかまれ
揺さぶられたとき
わたしは、幼なじみの顔に
初めて男の残忍さを見た。

そして、わたしも
彼に恐怖に青褪めた
無防備な女の顔を晒していたはずだ。


それは、あまりにも烈しく
忌まわしく
苦い経験だったので
その事は一旦、封印されたのだろう。


そして、その苦い思い出が
甘いものに変わり
そのときのことについて、ふたりの間で
きわどい当てこすりまで
言えるようになるには、確かに
長い時間が必要だった・・・。



「その瞬間、人は
お互いの心の中に
小さな種を一粒、落としているのかも
しれませんね。

ごく、小さな種で
しかも、ゆっくりと育つので
実を結ばないまま、終わってしまうものも
あるのかもしれないけれど・・・」


若い男は
舗道に落ちているプラタナスの実に
目を落としながら言った。


「・・・なるほど
さすがは、小説家の先生だ・・・。

しかし・・・
そこまで、いろんなことを
思いついて、どうして処女作を
仕上げられないのか、わたしには
わからん・・・」


「さあ・・・どうして、でしょうね。
恐らく、小説以上に、ドラマチックな
半生を生きてきたらしい人が
目の前にいるから、すっかり
気後れして、しまっているのかも・・・・」


「買いかぶりすぎだ」


ふたりは、顔を見合わせて苦笑した。



───そういえば、あの夜も・・・。

男の集団というものが
駆り立て煽り立てる
男の残忍さというものを
わたしは知り抜いていたはずだった。


───ろうそくの火で焙られながら
わたしは恐怖に青褪めた顔を男に
晒していたに違いないけれど・・・

しかし、あのとき、一瞬
憎悪に満ちていると思った
男の瞳の中に
わたしは、たしかに
一瞬、かすかな
怯えのようなものが過ぎるのを見て
「おや」と思ったのだった。


『この男も怯えているのかも、しれない』と。


だから、あのとき
わたしも、なんとか自分を
保っていられたのかもしれない・・・。



───思えば、あの
ろうそくの火で焙られた夜に
あの男も、わたしの心に、そっと
一粒の種を落としていたのかもしれない。



「ほらほら・・・
また、色っぽい顔をして
追憶に浸っている。
なんて、嫌なひとなんだ・・・!!」


気がつくと
老けたキューピットのような顔をした
若い男が、彼女の顔を見つめながら
微笑んでいた。

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