「やさしい雨」の部屋 2

□ロザリー
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 「奥さん、これは命令です」


と、お医者様はおっしゃった。

「助手を、ここに残しますから
あなたは半日でも
ご主人と一緒に外の空気を吸いに
お出かけになって下さい。
あなたも、普通の体では、ないのですよ」

そして


「なに、人は簡単には、死にはしません」


と付け加えられた。


『お医者様というのは奇妙なことを
おっしゃる』と、思った。

わたしが
「助かりますか?」と聞いたときには

「医者も神ではありません」

と、おっしゃったのに。


しかし、わたしは、夫に
半ば強制的に、外に連れ出された。


明るい日差しに目が眩んだ。


そういえば、わたしは何日も外の日の光を
浴びていなかった。

薄暗い病室に横たわる、あの方の側から
わたしは、離れることが出来なかったから。


「生死の境を彷徨う」という言葉があるけれど

眠り続けるあの方は、あまりにも静かで
青白い石の彫像のように冷ややかだった。


もともと冷たく整った、彫刻めいた方だった。
黙ってぼんやりと考え事をしていらっしゃる
ときなど、いっそう、そのように見えた。
だから、このまま
白い石の像に戻っていくことに
何の葛藤も感じてはいらっしゃらないのかも
しれない・・・。
そう、思うと、不安になって
本当に息をしていらっしゃるのだろうか
すでに、冷たく硬くなっていらっしゃるのでは
ないか、と、何度もその頬に触れて確かめた。

そうやって、あの方の枕元で
昼も夜も過ごすうちに
わたしも正気を
失いかけていたのかもしれない。



久しぶりに昼間の光の下を歩いていると
全身で息をしているような
生き返っていくような、新鮮な気持ちがした。


並木道沿いに、ふたりであてどもなく
歩いていると、いつの間にか
あの場所に来ていた。
12歳のわたしが、あの日、立っていた辻。


あの日のことを、夫に初めて話した。
わたしが、身を売ろうと
ここに立った日のことを。


初めて、声を掛けた人があの方で
あの方は、女が女に声を掛けられたと
言うことが、よほど可笑しかったらしく
大笑いをされた。
そして、金貨を恵んでくださった・・・
その事を話した。


「みすぼらしい少女が
ひもじくて、ひもじくて
華やかな金モールで飾られた緋色の服を
纏った目も眩むような
若い軍人さんに声を掛けようとした・・・
そのときの気持ちは
あなたには、想像がつくかしら」


ベルナールは
痛ましそうな目でわたしを見つめ


「12歳の少女が、ひもじさのあまり
身を売ろうとした、ということは
自分のせいではないのだから
それを恥じることはない」


と言ってくれた。そして


「でも、そんなことに、ならなくて良かった。
最初に声を掛けた相手があの人でよかったな」


と言った。


「あの方はね・・・
笑い終わったあと、ほんの一瞬
ふっと、哀しげな表情をされたの。
そのときのお顔が、何故か忘れられないの。


それから後に、お側に置いていただくことに
なったのだけれど・・・

あの方の、度外れて大きな
まるで凱歌のように響く笑い声を
あなたも、知っているでしょう。

あの高笑いの後には、きまって
一瞬、ふっと哀しげな表情を
なさることに気がついたの。

もしかしたら、あの大きな笑い声で
沈んで行きそうになる、ご自分の気持ちを
無理に紛らわそうと、していらっしゃるのかも
しれないって・・・。


あの方はね、屈託がなく磊落そうに見えて
世の中のちょっとした悲哀にも
ひどく敏感に反応されて・・・
取り乱すと言っても良いほどで
時々、人に見られないように
横を向いて、そっと涙ぐむ・・・
そんなところも、ある方なのよ。

わたしには、何故、人々が
陰で『氷の花』などと、呼んでいるのか
それが解らなかったわ」



向こうから、小さな女の子が
クチナシの枝を束ねたものを盛った籠を
小脇に抱え、もう一方の手で
その束のひとつを、高く掲げ
声を張り上げながら、歩いてくる。
裸足で、継ぎのあたった灰色の服を着て
10歳にも満たないのかもしれないのに
生活の重みに押しつぶされそうに
なりながらも、懸命に生きているのは
あの頃のわたしと同じだ。


精一杯の励ましのつもりで
わたしは声を掛けた。


「まあ、なんて綺麗!!
ひと束・・・いえ、全部、いただこうかしら。
それにしても、本当に綺麗ね。
それに、なんてよい香り!!
こんなクチナシ滅多に見かけないわ!!」


女の子の痩せた小さな顔の中で
大きな黒い瞳が輝いた。
そして、得意そうに言った。


「綺麗でしょう!!
あたいが朝早くに行って枝を折ってくるの。
とびっきり綺麗で良い匂いのする花がある
ところを、あたい、知ってるんだよ。
まいどあり!!」


嬉しそうに去って行く女の子の後ろ姿を
眺めながら、夫が言った。


「俺は・・・
長い間、貴族というものを呪い
俺に半分流れている貴族の血を呪って
きたけれど、人と人を隔てるものが
貴族だから、だとか
平民だから、という
そのような世の中に生きていることこそが
不幸だと、気がついたときから
貴族を呪うことを止めた。

そう、思ったら・・・
それまでよりは、人というものが
少し良いものに見えてきて
自分の目のまえも
少し、明るくなったような気がした。
まだ、どこかに希望の光が残っているような
気がしてきた。

これからは・・・
人が己の生い立ちを呪ったり
人と人とが身分で隔てられたりすることの
ないような世の中が来れば、良いな・・・」


ベルナールも、今、あの方と
あの方が亡くしたばかりの彼に
思いを馳せているという事が
わたしには解った。


「今は、俺たちにできる限りの・・・
精一杯のことをしよう」


とベルナールは言った。


腕に抱えたクチナシの花が
馥郁とした香りを放っている。
我家に戻ったら
病室の窓を開け放し、風を入れよう。
そして、このクチナシを花瓶に挿そう。
花の香りで、部屋を満たそう。

この世には、まだ、色も香りも光も
残っている事を、あの方に
知らせてさしあげたい。

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