「やさしい雨」の部屋 2

□夜明け 前編
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 あの頃のわたしは意志を持たなかった。


わたしはただ、眠っていた。
ただ浅い眠りと深い眠りの間を
漂っていたが
植物のように生かされていた。

ロザリーがいなければ
わたしは餓死していただろう
それも、たいして苦痛を伴わずに。
しかし、わたしは生かされていたので
そうはならなかった。


彼女はガーゼや包帯を取替えてくれ
コロン水を垂らした湯に浸して絞った布で
わたしの顔をやさしく拭い
身体を、指の一本一本まで丁寧に拭き清め
汗に濡れた寝巻きを取り替え
髪を梳いてくれた。

それから、わたしの頭を胸に抱くようにして
支え、辛抱強く語りかけながら
半睡状態のわたしの口に、スプーンで
スープや湯に溶かした蜂蜜や
温めたミルクを少しづつ流し込むのだった。


それ以外のときは、わたしは
ただ、眠っていた。


眠っているはずなのに
時折、感覚が恐ろしく鋭くなっていて
見える筈もないものが、見え
聞こえる筈もないものが、聞こえた。


この家の主である若い男と
医者らしき初老の男が
わたしに終油の秘蹟を受けさせる時期を
相談していた。

ロザリーが
泣きながら何かを訴えていた。
それを、この家の主である若い男が
なだめていた。


それから、いろいろな夢を見た。
闇の中に鮮やかな断片が
浮かび上がってきては、消えていった。


それらは恐らく、わたしの記憶の断片。


馬の嘶き・・・

硝煙の匂い・・・

茜色・・・

悲鳴・・・

足元で砕け散るガラスのコップ・・・

石畳・・・

裸足で駆けた庭の小道の石畳の熱さ・・・

子供の頃、遊んだ泉・・・

裸の肩に受ける暑い日ざしと
頬にかかる冷たい水しぶき・・・

枕元にそっと置かれていた
クチナシの香り・・・

白いシーツ・・・

雪の朝の軒先の氷柱と白い息・・・

わたしの寝室の暖炉の上の
番の小鳥の置物・・・

薪の燃える音・・・

厨房から漂ってくるお菓子を焼く匂い・・・

青と金を基調に描かれた絵・・・


ああ・・・あれは・・・
わたしの覚えているうちの
いちばん最初の降誕祭にして
わたしの誕生日・・・。


わたしは風邪を引いて
寝かされていて・・・
退屈しているわたしの為に
母上は枕元に座って
キリストの降誕の様子を
絵を見せながら話してくださっている。


その絵は、恐らく、親しい人から
母上に届けられたカードだったのだろう。
それは青と金を基調にした厳かな色調の
絵だった。

粗末な藁葺き屋根の小屋の中の
飼葉桶の中に眠る赤子を中心にして
人物や動物たちが、巧みに左右対称に
配置されている。


小屋の外には
頭に大きな冠を載せ
豪奢で風変わりな衣装を着て
贈り物を捧げ持ったマギたちが
威厳と恭しさを湛えて立っている。


わたしのために
母上はひとつひとつ指差しながら
説明してくださる。


「黄金と没薬と乳薬の贈り物を持って
東方からはるばるやって来た3人の
博士たちよ。その名前は
カスパール、メルヒオール、バルタザール・・・」


その声は、低く、滑らかで
ヴァイオリンの音色のよう。

彼らの背後には立派な鞍を括りつけられ
花綱で飾られた奇妙な動物が
しゃがみこんでいる。
その奇妙な動物を


「駱駝というのよ。
遠い東の国では、この動物の背に乗って
広い砂漠を渡っていくのよ」


そして、砂漠というところは
砂に覆われているだけの不毛の大地が
何処までも海のように広がっているところ
なのだと、母上は教えて下さった。


その絵は、本当に面白く、可愛らしく
いつまでも眺めていても
飽きるという事がないように思える。


藁葺き小屋は何故か外から内部が
見渡せるようになっている。
小屋の中心には丸々と太った
色白の赤ん坊が飼い葉桶の中で、眠っている。
赤ん坊には金色の丸い後光が射している。
まるで小屋の真上に燦然と輝く星と
競いあうかのように。

飼い葉桶を護かのように、側には若い男が
立ち、その足元には白い被り物を被った
小柄な女が跪いて、飼い葉おけの中の
赤ん坊に目を注いでいる。
わたしがじっと眺めていると
女は振り返ってわたしを見た。


それは、まだごく若い女だった。
そして、その顔は
どこか母上にも似ていたし
どこかロザリーにも似ていた。
・・・ふたりの顔には、いったい
似たところがあっただろうか・・・。

その、若い女は、すこしやつれた
やさしげな顔をしていた。
途方にくれたような
希望と諦観が入り混じったような
やさしげで、すこし悲しげな・・・
そう、思ってみていると
まだ、若い女のはずなのに
急に、疲れた老女のようにも思えてきた。
それが母親というものの顔なのかも
しれなかった。


女は、しばらく訝しげに
わたしを見つめていたが
やがて、何かに思い当たったかのように
表情を和らげると
親しげに微笑みながら頷いてくれた。

厩の中はたいそう賑やかで
羊や牛やロバまでもが首を伸ばして
赤ん坊を興味深げに覗きこんでいる。
そして、羊飼いたちが
若い夫婦の背後を取り囲んでいるのだが
その中に、子羊を腕に抱えて立ち
大きな黒い目をびっくりしたように
見開いて、飼い葉桶を覗き込んでいる
小柄な少年がいる。
その表情が面白く、愛らしく
ほっそりとした襟足にかかる
黒い巻き毛が、どこか懐かしくて
じっと眺めていると
少年も振り返って、わたしを見た。
そして、彼もまた
にっこりと、笑いかけてくれた。



────やあ、そこにいたのかい!?


とでも言いたげに。


それは、出会ったばかりの頃の彼だった。


          夜明け 後編につづく

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