「やさしい雨」の部屋 3

□カフェ
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 彼女は鄙びた町の小さな広場に面した
カフェに坐り、開け放たれた窓から
のんびりと外を眺めていた。


ときおり頬に感じる風は冷たかったが
気持ちよく
日中の日差しは、ぽかぽかと明るく
外套にすっぽりと包まっていれば
寒くはなかった。


小鳥は街路樹に鈴なりになって
賑やかに囀っている。
カフェの前を行きかう若い女たちの
ボンネットや前掛けの白
噴水の周りの花壇のクロッカスの黄や
チューリップの赤が目に眩しかった。


二階から人が降りてくる気配がした。
そして背後から静かな足音が近づいてきて
やがて彼女の隣を
衣擦れの音と共に通り過ぎたときには
ごく控え目に振られた麝香や白檀や
ヘリオトロープの香りがした。
ごく簡素な姿の男女だった。


目立たない服装にやつしてはいるが
恐らくは元貴族だろう、と彼女は考えた。


彼らは、彼女からは離れた
反対側の壁を背にした席に
坐ったようだった。

カフェの二階は旅籠になっているので
馬車の準備が出来るのを待っている
旅行者だろうと彼女は思った。

彼らの談笑する声はやっと聞き取れるほどの
低く穏やかな音楽のようで
たしなみの良い二人連れだと彼女は思った。


ふいに彼らの談笑が止んだ。
そして、横顔に射るような視線を感じたが
彼女は素知らぬふりをして
ゆっくり茶碗を持ち上げ
コーヒーを啜った。



────このようなときは
素知らぬふりを続けるのだ。

ただ自然にしていれば良い。
やがては相手は他人のそら似であったと
思うだろう。


────人の記憶など曖昧なものなのだ。
あるいは、ただ、暇つぶしに
こちらに目を据えているだけなのだ。
ならば、すぐに、飽きて興味を他に
移すだろう。
あるいは、単なる自分の
気のせいなのかもしれないのだ。



広場に視線を戻すと
花売りが屋台に
水色や藤色や淡い紅色の
ヒヤシンスが並べていた。



────花瓶に挿して卓に置いたら
きっと部屋いっぱいに
清冽な香りを放ってくれるだろう。
あれを一束、買って帰ることにしよう


と、彼女は思った。


身なりの良い男女の方も、いつしか
再び談笑に戻っていた。



久しぶりに外出したせいか
心地よい食欲がわいてきたので



────昼食には川魚の炙ったのを食べて
食後には焼き菓子とクリームを添えた苺を
注文しよう・・・



などと考えているうちに
うきうきとした気分になって来た。



入り口の扉が開き
若い軍人が脇に包みを抱えて入って来た。
そして彼女を見つけると
嬉しそうな顔になり
大股で真っ直ぐに近づいてきた。



「買い物を済ませてきましたよ」


「ありがとう。でも、本当は
一緒に行きたかったな」

「まだ駄目です。
風邪が治りきっていないから。
それに、人混みは疲れますよ」

「でも、市場は好きなんだ」

「どうしてですか?」


「活気があって、眺めていると
なんだか元気になるだろう。
ところで、腹が減った。
昼食は川沿いの店にしようよ」


彼女は男を促した。


ふたりはカフェの外に出て行った。


 


 「お父様たちが待つ宿駅には
何時ごろに・・・」


娘は、話しかけようとして止めた。


向かい合わせに坐った男は
豊かな亜麻色の髪が掛かる整った横顔を
車窓に向けていたので
てっきり、移り変って行く外の風景を
眺めているのだと思っていたのに

実は、その視線は、落ち着きなく
ガラスの表面を彷徨っているだけだ
ということに、気がついたからであった。


そして、男が急に


「うっ」


と嗚咽を漏らすと
両手を顔で覆ってしまったので
向かい合って坐っていた娘の方は
驚いてしまった。

彼女のおじが、このように
感情を露にすることなどは
滅多にないことだった。



「おじ様、泣いていらっしゃるの?」


「・・・取り乱してしまって
すまない・・・」


彼は手巾をとり出し、鼻をそっと押さえた。



「思いがけない人に
出会ったから・・・。

生きているか死んでいるかも
解らなかった。
再びこの世で出会うことはないと
もう諦めていたのに
元気でいる姿を見て
ああ・・・あの声を聞いて・・・
あの独特の、甘い、低く掠れた声を
わたしが忘れるはずはないから・・・」


「あら、いったいどこで?」


「さっき、わたしたちがいた
カフェに座っていたんだ」


「確かに地味な灰色の外套を羽織った人が
ひとりで坐っていたけれど
でも、本当に、その人がおじ様の
大切な人だったのかしら?

あのようなところに、偶然
叔父様の知り合いが坐っているなどという
ことってあるのかしら?

・・・そんな大切な人だったのに
おじ様はお声も掛けずに
その方と別れてきてしまったの!?」



「ああ、何度も声を掛けたいと思ったよ。
でも、掛けなくて良かった」



「あら、それは、どうして?」


「彼女は独りで座っていながら
寂しそうには見えなかったし
不幸そうにも見えなかった。

木々を眺めたり
小鳥の囀りに耳を傾けながら
生きていることを愉しみ
慈しんでいるように見えた。

彼女を最後に見たときに
一緒にいた男とは違ったけれど
頼りになる男もいるようだ。


良かった・・・
生きていてくれて・・・

わたしは彼女がどこかで元気に生きていて
くれてさえいれば
それで十分なんだ・・・」



彼女のおじは、いつもの柔和な顔に戻って
彼女に微笑みかけた。

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