「やさしい雨」の部屋 3

□ピクニック 前編
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 「少し早いかもしれないが
昼食にしないか?」


彼女は馬車の窓から首を伸ばして
手綱を操る男に声を掛けた。


「あそこの桜の木の下でお弁当を広げたら
気持ちが良いのではと思って。
小さな滝のある泉もあるし
馬車も寄せられるし」


男は微笑んで、承諾した。


冬に引いた風邪が思いがけず長引いて
彼女の退院は2ヶ月近くも延びてしまったが
彼は気候の良い時期に
こうして旅が出来たことは
かえって良かったと思った。


「駅逓馬車で十分だったのに」


と、彼女は恐縮していたが
あの日、土気色の骸のようになって
自分に抱えられていた女が
今は薔薇色の頬をして
自分に微笑み掛けてくるのを見ると
涙ぐみそうになる。



彼が馬車を路肩に寄せ
馬に水を飲ませている間に
彼女は滝に近い桜の木の下に
手早く敷布を広げると、その上に
毛布を広げ、居心地の良い場所を作った。

それからシャツの袖を捲り上げ
髪を手巾で手早く束ねると
顔と手を洗いに行き
水を汲んで戻って来て
コーヒー沸かしの支度をした。

それから麻のテーブクロスを広げると
バスケットの中から食器や食物を
取り出して並べ、食卓を整えた。

そして、顔と手を洗って戻ってきた男に
タオルを手渡した。


「隊長はお嬢さん育ちだと思っていたのに
案外、手際がいいんだなあ」



「おい、わたしはそんなに
何も出来ないように見えるのか?
一緒に行軍や野営の演習を
やっただろう。忘れたのか?」


「ピクニックと演習は違いますよ」


「それも、そうか・・・」


男に錫のコップを手渡し、ワインを
注いでやりながら彼女は苦笑した。


「でも、まあ、こういうことだけは
馴れているのかもな。
子供の頃から、あいつと一緒に
何度もやって来たから・・・
あいつはね・・・」


と言いかけて、彼女は口を噤んだ。


「俺のことは気にしなくていいですよ。
やつに嫉妬するほど、もうガキじゃないし
それにやつの思い出なら俺も聞きたい」


と彼は微笑んだ。



暖かな春の風に桜の花びらが舞っていた。
その花びらは泉にも落ちて水面を薄紅色に彩り
小さな滝つぼでは、くるくると浮きつ沈みつ
していた。


「わたしたちが子供のころはね。
朝から夜までいつも一緒で
まるで子犬のようにじゃれあって
どろんこになって遊んでいたんだ。

腹が減ったら勝手口から台所に駆け込んで
料理人のおばさんにチーズや
ハムを挟んだパンやりんごやミルクを貰って
庭や原っぱに行って並んで坐って食べる・・・
そんなのが、ふたりのお昼だったんだ。

もう少し大きくなってからは
本格的に、どちらからともなく

『今日はちょっと遠出しようか』

って、バスケットに
くすねてきたパテやテリーヌや
お菓子やワインを詰めて・・・」



話しながらも食卓に気を配り
手際よくチーズやハムやパンを切り足し
りんごやきゅうりの皮を剥き
男のためにワインを注ぎ足してやる。

若い男の旺盛な食欲は
彼女にも気持ちが良かった。


「あいつはね。ピクニックになると
人が変わったように頑固になると言うか
わたしが

『腹が減った、暑い、疲れた
もういいじゃないか
ここでお弁当をひろげようよ』


って、どんなに泣き言を言っても
絶対、聞かないんだ。


『もう少し、もう少し先に
見晴らしが良い場所がある』とか

『びっくりするくらい
大きな芥子の花が咲き乱れている
ところがある』とか

『あんな素敵な場所があるのに
ここでお弁当を広げたりしたら
もったいない』

って言って、絶対に譲らないんだ」


────そういえば、この人は
行軍の演習のときなど、妙に嬉しそうで
先頭に立って張り切っていて
サボろうサボろうとする俺たちを
大きな声で叱咤していたのに。
あの隊長が、泣き言!?


想像すると、おかしくて
彼は吹き出しそうになった。


      ピクニック 後編につづく

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