「やさしい雨」の部屋 3

□市場の片隅にて
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 その小さな店は、腐った果実の臭いや
生肉や生魚やチーズの臭いのする
賑やかな市場の一角にあった。


雑多な臭いと色彩と喧騒に紛れて
そのまま通りすぎてしまいそうな
石鹸や美顔水の小瓶ポマードの瓶などを
控え目に並べた陳列窓を
老人ならば、遠くからでも見のがさなかった。


扉を開くと
ローズマリーやラベンダーや薄荷の
爽やかな香りがした。

3人も入れば、いっぱいになってしまうような
店内の、三方の壁に作りつけた棚には
マルセイユ石鹸や岩塩の樽
軽石や海綿を盛った籠
小分けにした染め粉や香辛料の袋
など、雑多なものが並べられていた。


カウンター越しに
白衣を纏った背の高い女が
客の相手をしていた。


その背後の、ガラスの仕切りの
向こうが
調剤室になっているのだろうと
思った。



「でも・・・
もう、何度も『あるときでいい』と
言っていただきました。
それなのに、後でそのときの分を
お支払いしようとしても
受けて取っては下さらない・・・」



訴えている方は、顔色の悪い痩せた若い女で
シミのついた前掛けをしている。
この市場で働いている女であろうと思った。

白衣の女は、低く、やさしげな
労わりのこもった声色で


「奥さん、その様な心配は無用ですよ。
お代は十分、いただいております。
それよりも、勝手にご自分で服用を
お止めになったりなさらないように。
そして、少しでも滋養あるものを
召し上がって下さい。
気を楽にして、焦らずに
病と付き合うつもりで根気良く・・・
それが何よりも大事ですから・・・」


と言った。


若い女は、何度も頭を下げて出て行った。
客を見送った後
白衣の女は老人に向き直って
微笑みながら


「何かお探しで?」


と、声を掛けてきた。

青い瞳と灰色がかった金髪の
化粧気のない女だった。


若くはないし、人目を引くほど艶やか
というわけでもないが
整った彫刻めいた顔立ちをしていた。
そして、この店と同様に
澄んだ、涼しげな印象があった。

その容姿の印象からも
低く、すこし掠れた声からも
以前にどこかで出会っているような
気がしたが
しかし、老人には思い出せなかった。



────記憶力には自信があった。
一度、店にやって来た客を
見忘れるようなこともなかったのに。
年はとりたくないものだ・・・



と、老人は心の中で、苦笑しながら


「傷薬と、咳止めを下さい」


と、応えた。


「どのような傷で?」


「小刀でうっかり突いてしまったような
軽いものです」


「ああ・・・」


甲も指や爪も細長く、やや肉付きの薄い手が
宮廷作法を思わせるような
無駄のない滑らかな仕草で
小さな陶器の容器を差し出してきた。

蓋を開けてみると、黄色の練薬が入っていて
鼻を近づけると
ひまし油とかすかな獣脂と
生姜と鬱金の香りがした。


「シロップの方は
一日、3回、ひと匙ずつ
できるだけ長く喉に載せているつもりで
ゆっくり飲んでください。
2〜3日試してみて
改善されないようでしたら
一度、お医者様にお見せになることを
お勧めします」


茶色の小瓶のコルクの蓋を抜き
こちらも、鼻を近づけると
強い月桂樹の香に混じって、かすかに
ニオイスミレの香がした。


女は、一瞬、怪訝な顔をしたが
すぐに、にこやかな表情に戻って


「匂いは少々、強いのですが
味はそれほど悪くはないと思います」


と言った。


「ああ、失礼・・・
試すような真似をするつもりは
なかったのですが・・・・
実はわたしも、同業でしてね
いえ、もう、引退いたしましたが。
しかし、やはり、まだ、興味があるようで
初めての店を見ると、入って行って
しまうのです」


「ああ・・・そうでしたか」


「『焦らず、根気良く・・・』
なかなか深い言葉ですね」


「聞いていらっしゃったのですか?
お恥ずかしい・・・
わたくしなど、まだ駆け出しですのに
つい、口幅ったいことを
申してしまいました・・・」


と、女は顔を赤らめながら言った。


「駆け出し!?」

「ええ、修行を始めたのが
遅うございましたから」

「では、あなたは、稼業を継いだというわけ
では、ないのですか!?」

「はい」

「どうして、また?」

「患って
しばらく療養所に入っていたときに
薬草に興味を持ちました」

「療養中に?」


「はい・・・
そこでは時間はたっぷりありましたので
医師に借りた本を読み漁り
野を歩いて身近な草を観察したり
自分で栽培してみたり・・・
いつしか独学を始めておりました。
そんな事をしているうちに
本当に薬剤師になれないだろうかと
考えるようになりました。

そこで療養所を出るときに
紹介状を書いて貰い
数年間、師の下で修行しました。
良い師にめぐり合えたせいか
思いのほか早く開業することができました」


「ほう・・・」


────自分は仕方なく稼業を継いだ。
ときには、後ろめたい事にも
手を染めなければ、ならなかった・・・


「つまり、奥様は、この仕事をご自分で
お選びになった・・・」


「ええ・・・
患う前は、全く違うことを
生業としておりましたが
元気になったら、今度は人を
生かすようなことをしたいと
考えておりましたので」


「そして、今はご自分の仕事に
満足していらっしゃるのですね」


「ええ、まだまだ駆け出しで・・・
学ばねばならないことは
沢山、ありますが・・・。

薬草も、人を生かすために
神がこの世に
用意しておいてくださったものの
ひとつだと思っております。
学んでいけば、いくほど
そのように、確信いたします。
いつも、新しい発見があります。
可能性は無限に用意されているように
思えます。

それに、すぐに、目に見えて
効果が表れるわけではない・・・
というところにも、そのように思えますし
心が惹かれます。」


「効果が表れないところに・・・ですか?」


「ええ、病を治すには、根気が要ります。
効果はすぐには表れません。
しかし、それも、また、神の答えだと
思うのです。


一瞬で効果が表れる・・・
その様な薬があるとしたら
劇薬と呼ばれる類のものでは
ないのでしょうか?
それは、むしろ毒なのではないでしょうか?
もし、一時的には効果があったとしても
それは結局
解決にはつながらないような・・・
わたくしは、そのような
気しているのです」


「なるほど・・・

この仕事を続けて行く上で
自分なりのお考えをお持ちになることは
良い事です。
それが、いずれ、あなたの流儀になり
持ち味になるでしょうから」

「わたくしの持ち味・・・!?」

「ええ、そうです。
そして、けして驕らず
神の存在を意識し続けることは大切だと
思います」


女は、老人の顔を見つめ、頷いた。


一見、目立たないのに
相対しているうちに
その身体の奥の方から
ほの白く発光しているのが見えてくるような
不思議な女だと、老人は思った。


「・・・ずいぶんと長居をしてしまった」


「いえ・・・わたくしの方が
お引止めしてしまったのかも。
よろしかったら、又、お寄り下さい」


若くはない女が、にっこりと微笑むと
白い花が開いたような印象になった。


「ええ、又、寄らせていただきましょう」


老人が扉を開いたとき
ちょうど外套を纏った大柄な軍人が
褐色の髪に青い瞳の小さな男の子を
片腕に抱いて、入ってこようとしている
ところだった。


軍人は軽く会釈をして
老人のために路を譲った。
そして「お気をつけて」と
控え目な声を掛けた。


そして、老人を見送ってから
男の子とともに、中へ入って行った。

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