「やさしい雨」の部屋 3

□面影
1ページ/1ページ

 ────妻がいる・・・。



一瞬、老人は、自分の目を疑った。


しかし、良く見れば
全く違う背格好をしていた。

女は、背が高かった。


灰色がかった金髪を項の後ろで
ただ束ねただけで
麻の白衣を纏っている。



────似ているといえば
その印象だろか・・・


と老人は思った。


────穏やかで、涼しげで
派手な自己主張などというものには
一見、無縁のように見えて
実は、梃子でも動かない意地の強さを
内に秘めている。
たおやかで従順そうで
周囲に溶け込んでいるように見えながら
そっと、観察していると
自分の王国というものをしっかりと守っている
人間特有の
どこか寂しげな、しかし凛として超然とした
孤高とでも呼ぶべきものを持っている。



────妻は、そういう女だった、


老人は少しの間、思いに浸った。


今、ショウウインドウのガラス越しに
覗きこんでいる店の中にいる女からも
同じような印象を受ける。
そして


────それに、似ていても別に不思議はない


と、そっと苦笑した。


店の中には、女と小さな男の子しか
いないようで
女は分銅ばかりを前に
何か作業をしながら
男の子の話し相手をしているようだった。


老人はそっと、扉を開けた。


ローズマリーやラベンダーや薄荷の爽やかな
香りがした。

3人も入れば一杯になってしまうような店内の
三方の壁に作りつけた棚には
マルセイユ石鹸や岩塩の樽
軽石や海綿を盛った籠
小分けにした染め粉や香辛料の袋など
雑多なものが並べられていた。

女は仕切り越しに、男の子に向って
話しかけているところだったが
顔を上げた瞬間、目を見張り
そのまま、凍りついたような表情になった。


「母さん、どうかしたの」


男の子の声で、女は我に返ったようで


「いらっしゃいませ」


と、抑揚のない、すこし強張った声で言った。


「何か、お探しですか?」


「そうだな・・・
関節の痛みに効く軟膏でもあれば・・・
それから、咳止めを」


「かしこまりました。
少しだけ、お時間をいただきますが
ここでお待ちになられますか?」


「差し支えなければ、ここで待たせて
いただく」


女はうなづいた。

それから男の子に


「おまえに、仕事を頼んでいいかしら?」



と声を掛けた。


「うん、いいよ」


女は、仕切りの後ろから靴の箱ほどの大きさの
紙箱を幾つも取り出すと
ひとつづつ男の子に手渡しながら


「では、そこの香辛料の棚を見て
少なくなっているものを箱から出して
補充しておいておくれ。
母さんがいつもしているように、ラベルは
全部こっち向きにして」


「うん、わかった」

「見た目も綺麗になるように、気をつけて
おくれよ」


「わかってるよ」


老人が、男の子を目で追いながら


「可愛らしい子だ・・・奥さんの子か?」


と問うと、女は


「わたくしの子です」


と答えた。そして


「母上はお元気でしょうか?」


と言った。


「ああ・・・元気だ」


「・・・良かった・・・」


「いつから、この仕事を?」


「2年前からです。
患って療養所に入っていたときに思い立ち
独学を始めました。
そして、療養所を出るときに紹介状を書いて
貰い、数年間、師の下で修行しました。
良い師にめぐり合えたせいか
思いのほか早く開業することができました」


「そうか・・・すばらしい職業だな」


「ええ、わたくしもそう思っています。
わたくしなんぞ、まだ、駆け出しですが」


「坊やと少し、話をさせて貰っていいかな」


「どうぞ」


小さな手で、熱心に小さな紙箱を
棚に並べている男の子に向って
老人は声を掛けた。


「坊や、わたしにも
その仕事を手伝わせてくれないかね」


「駄目だよ。これは僕の仕事だから」


「ほう、坊やの仕事なのか。
だから、手伝ってはいけないのか」


「うん、そうだよ。
母さんがね、自分の持ち場を
しっかりと守る人にならないといけないよって
言うんだ」


「ほう・・・責任感が強い子だ。
頼もしいな・・・
では、少しだけ、話し相手に
なってくれないか」


男の子は、振り返って母親を見た。


女は微笑んで言った。


「その仕事は、後まわしにしても
かまわないから
母さんが薬をご用意している間
お客さんのお相手をして差し上げて」


「少しだけならいいよ」


と言ってから、男の子は手を止め
少し棚から下がって、腕を組み
自分の仕事を眺めた。


「何をしているのかね?」


「ときどき、途中で手を止めて
全体も眺めて見るんだ。
すると、仕上がりも違ってくるんだよ」


「ほう・・・なるほどな」


その大人びた口ぶりに
老人は噴出しそうになるのを
なんとか堪えながら相槌を打った。


「物事というのはね
いつも、ちょっと先を
見ていないといけないんだよ。
でも、あんまり、先のことを
心配しすぎてもいけなくて
三歩先くらいを見ているのが
丁度いいんだって。
お客さんは、知っていたかい?」


「さあ・・・どうだろう?」


その大人びた物言いに
口元にひとりでに笑みが
浮んでくるのを堪えながら
老人は曖昧に返事をした。そして


「それは、坊やが思いついたこと
なのかい?」


と聞いた。


「違うよ。
母さんがね、チェスを刺すときね、必ず

『人生はこの盤と同じで、常に三歩先を
見据えていないといけない』

って言うんだよ。僕が

『もう、聞き飽きたよ』

って、文句を言うと

『ごめん、ごめん
でも、チェスを刺すときの
お爺さまの口癖だったから』

って、言うんだ」


青い瞳に真っ直ぐに、見つめられて


「ほう・・・そうか・・・」

と、あいづちとも感嘆とも
ため息とも付かぬ声を老人は漏らした。


真っ直ぐな眉
濃い睫に縁取られた
宝石を嵌め込んだような青い瞳
薔薇色の頬
そして、子どもにしては驚くほど
精緻に整った人形めいた顔立ちに
青光りするような黒い巻き毛が清冽で
しかもどこか、なまめかしいような
野性的な美しさを添えている。

しかし、一旦、口を開くと
小鳥のくちばしのように
上唇が突き出て
急に、子どもらしい
あどけない表情になるのだった。


「坊やのお母さんはチェスが強いのかい?」

「すごく強いよ。父さんも強いけれどね。
同じくらい強いかな。
もう、いいかい?仕事に戻りたいんだ」


男の子が再び、棚に商品を並べるという作業に
没頭してしまうと


老人はゆっくりと女の側に
戻った。


「おまえの子どもの頃にそっくりだ。
顔立ちといい、瞳の色といい
あの大人びた話し方といい・・・
黒髪だという事を除けば・・・」


「わたくしの子です」


「それは・・・わかっておる」

老人が苦笑した。


「薬は、ご用意できております」


女が軟膏の瓶と粉薬の包みを差し出した。

老人が金を差し出した。


「ありがとう。
ああ・・・それから・・・
預かっていた物をお返しする」


老人が女の手に
小さな金の指輪を載せた。
剣をささげ持つ獅子の紋章を掘り込んだ
指輪だった。


今度は、女の顔が、綻んだ。


「ああ・・・
これを、まだ、お手元に!?

これを持たせた男の子は
どうしています?」


「我家で引き取った後に
アンリが養子にした。
今では庭師として、独り立ちしておる」


「そうですか・・・。
それは良かった・・・
ありがとうございます」


女の表情は、先ほど老人が
店に入ってきたときよりも
ずっと、やわらいでいた。


「この指輪は、おまえに与えたものだ。
だから、おまえの好きにすればいい。
与えたものを返してもらう筋合いはない。
それに・・・
わたしの方は、おまえからは
もう十分なものを貰ったと思っておる」



老人は、女の頬にそっと手を触れた。
そして、微笑んだ。


女は、化粧気もない、青白い顔をしていた。


老人を見つめ返す青い瞳は
潤んで揺れていたが
しかし、悲しげでもなければ
不幸そうでもなかった。


穏やかで、涼しげで、そして、あたたかく
そして、どこか超然とした雰囲気を
女は纏っていた。


腐った果実の臭いや
生肉や生魚やチーズの臭いのする
賑やかな市場の一角にある
この小さな店のように。


そして、少しも妻には似ていないと
思っていた、この末の娘の顔が
今では、一番、妻の顔を思い起させて
くれるような気がした。



「さて・・・
もう、これで、立ち去ることにする。

これ以上、ここにいると
おまえにも、坊やにも
未練が残りそうだからな。

では、坊や、元気でな」



老人は、外套の裾を翻すと
店の外に出て行った。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ