「やさしい雨」の部屋

□やさしい雨 その2 薔薇色の鏡
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 ───女を訪ねるときは
花を持って行くものだ。


とベルナールは言い


───パリのお菓子も忘れないでね。


と、その優しいかみさんが言った。



 彼が花束と菓子の箱を差し出すと
彼女は花束に鼻を埋め、香りを吸い込んだ。
それから少女のように、いそいそと箱の蓋を
開けると


「わ、砂糖漬!トルコ求肥も!
ありがとう、甘いものは大好きなんだ」


と言って、にっこり微笑んだ。


彼は『この人の、こんな顔を初めて見た』

と思った。


想像していたよりも顔色もずっと良く
元気そうに見えた。


部屋の壁に掛かった鏡には、午後のお茶の卓を
囲む、軍人と白い衣装の貴婦人が
薔薇色に染まって映っている。

彼が訝しげに見ていると


「面白いだろう。鏡の裏に細工があるんだ。
そうしてある理由のひとつはな
病人が自分の青白い顔を見てショックを
受けないため。
あとのもうひとつは

ここの院長が言うにはだな
病を治すコツは、なるべく幸福な気分で
いることなのだそうで
薔薇色は人を幸福にさせる色なのだそうだ。
な、たしかにじっと見ていると
なんだか幸福な気分になってこないか?」


広くはないが、明るい清潔そうな部屋には
書架や書き物机も備えられている。


「豪華なホテルみたいだろう。
アンドレがわたしのために
用意して置いてくれていたんだ。
病のことは隠していたつもりだったのだがなあ
すっかりお見通しだったんだな。
おまけにやつに蓄財や利殖の才が
あったなんて、びっくりだ」


そう言って、彼女は笑った。



 ────あの夜も、明け方雨が降った。
パリ出動の前夜・・・。


あのときも、雨の音を
聞いているのだと思っていた。

それは、下から伝わってくる
胸の鼓動の音だということに気づいた。

わたしは、かすかに上下する
男の暖かな胸に頭をあずけて
いつの間にか眠っていたのだった。

大きな手が頬を包み込んでいた。
睫毛が男の指に触れた。



「目を覚ましたのか」

と彼は言った。



「これから、言うことを
よく聞いて欲しい。

もし、俺に何かあったら
ひとりでパリを離れるんだ。

領地に行く途中、何度か立ち寄った事のある
A・・・市の近くに、空気の良い牧草の
丘陵地帯がある。そこでしばらく
静かに暮らせるようにしてある。
ベルナール夫妻にも話してある。
彼らは世慣れているし、なんでも相談に
のってくれる」

「嫌だ。
おまえがいなくては嫌だ。
おまえがいなくては生きてはいけない。
どこかへ行くなら一緒だ。
死ぬときも一緒だ」


驚いて顔を上げて訴えると


「俺もだ。おまえと行きたい。
おまえが死んだら、俺は生きてはいけない。
でも、おまえは生きていくんだ」

と言った。
その声は暖かく穏やかだった。


どうして、そんな話をする
たった今まで、ふたりして波に翻弄され
息も絶え絶えになって
このまま死んでもしまってもいいと思うような
ときを、過ごしたばかりなのに
と抗議すると


「男とはそういうものだ」

と言って微笑んだ。


「男は幸福だと、かえって冷静になるのだ」と

「おまえと愛し合えたから幸福だ」と

「もし、俺が先に逝くようなことがあったら
おまえに、しておいてやれることは
生きていくことを
促してやることだけだから」と


「どんな生き方をしても良い。
誰を愛しても良い。
俺に遠慮することはない。
お前はひとりの男を幸福にした女なのだから
大丈夫、自信を持って、生きていけば良い」と


それ以上、聞きたくなくて
わたしは抗議のかわりに
自分の唇で、彼の唇をふさいだのだった。
しかし、心の中で
わたしも、彼にそっくりそのまま
同じ言葉を返した。


そして、最後に付け加えた。


『ありがとう。
よかった・・・。
わたしも安心して先に逝ける・・・』と。



ただ、この暖かくて大きな手が
こんな風に、他の誰かを愛すのかと思うと
それだけは、つらいだろうなと思った。

そして、そんな自分の狭量を
そっと笑ったのだった。



       
       やさしい雨 その3につづく

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