アナタと共に

□序章
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【扉の先は】


外界から取り入れられる情報量が脳の許容量をはるかに超えてしまったとき、人はどのような反応をするだろう。
呆然とするだろうか、泣きわめきパニックに陥るのかもしれない。

その女は前者だった。彼女の五感はありあまる情報を可能な限り得ようと機能していたが、その持ち主は頭に入ってくる情報の半分も理解できていなかった。

そもそも、女は毎日のように通っている学校に登校途中だった。長い間電車に揺られてうたた寝をしていたのだが、ふと目を覚ますと既に電車は止まっていて。いつもの癖で急いで電車を降りる。
女はいつも終点で降りるため、長く電車の扉が開いているときは、乗換駅か終点のどちらかなはずだった。

さて今はどの駅か、と顔を上げた女の前には辺り一面の真っ暗闇が広がっていた。思わず立ちすくんだ女が最初に感じたのは寒気。次いで恐怖や疑問が湧き上がる。

いくら疲れていたとはいえ、朝から晩まで電車の中で眠ることなどあり得ない。そんな確信を持つ女は、ではこの光景は何なのかと頭を抱えた。
女の住む町は、多くはないが夜道でも困らない程度には街灯が等間隔で設けられていて、周囲の様子が視認できないなどということはまずないのだ。

手を伸ばして何かないかと探ると、指先に硬質な何かが触れ、思わず手を引っ込める。

そっと耳をそばだてるが、生き物の息づかいのようなものは聞こえないのでひとまず安堵した。だがそれは彼女の知る駅ではないという証のようにも思えて、じわじわと恐怖が上がってくる。焦りにもにたそれは女の精神を蝕み、呼吸を浅くさせた。

極度の緊張状態で、女はわずかに身を震わせながらうずくまった。見えないことにはどうしようもない。
吹き抜ける風や虫の鳴き声、土っぽいにおいからして少なくとも屋内ではないだろうと見当をつけると、女は目が慣れるか日が昇るのを待つことにした。

日が木々の隙間からわずかに顔を出し、真っ暗だった空間から闇が逃げその姿を現した。

女は愕然とした。

女には林と森の判別などできなかったが、目の前に広がる木々の群れに、ああ森だと漠然に思う。そして自分の置かれた状況の異様さに、寒さによるものではない震えが歯を鳴らす。
恐怖か、不安か。それともそれ以外の何か。己が半ばパニックに陥っていることぐらいしか理解できない女には、自分の感情を反断し難かった。

じっと息を潜めて身を縮めていた女は、頭上の光を見つめた。木々は背の高いもの、低いものがひしめき合い、日は頂上にあるはずなのに女のいる場所は薄暗い。

湿気た土の上に座っていたためか、すっかり冷え切った体を起こそうとして尻餅をついて初めて荷物を背負っていたことを思い出す。

リュックを漁ると、県外でフル充電の携帯電話、教科書、筆記用具、弁当と水筒、眼鏡、薬ポーチや名札が出てきた。こんな森の中で役立つものなんて、水と食料、ポーチに入っている痛み止めと絆創膏くらいだろうか。眼鏡を掛け、視界がクリアになるのと同時に目の奥に圧を感じ、少し気分が悪いよく慣れた感覚にしばし耐える。

ちらりと名札を手の中で転がし、刻まれていたはずの名前がないことに気づく。ほとんどの持ち物に書いてあったはずの名前も消えていて、その不自然さに首をかしげるが自分の置かれた状況の方が明らかにおかしくてそれどころではない。
もはや何の役にも立たない鉄の塊と化した携帯電話の電源を落としてリュックの奥底にしまうと、女は立ち上がってスカートの裾を払い、おぼつかない足元を忌々しそうににらんだ。学校指定のスーツにパンプスといった女の格好は、森を歩くにはあまりに不適切だった。

あてもなく歩いていた女は、少しだけ開けた場所に座り込み、弁当と水筒を取り出した。空腹でさっきから腹が鳴り、唇がカサカサだった。傷みやすそうな野菜や卵、水気の多いものを食べて少しだけ喉を潤す。
何度か咳をして、女は空を見上げた。なるべくまっすぐ歩いては空を見上げて太陽の位置を確認し、方角を確かめた。方角がわかったところでどちらに歩けば森から出られるのか、そもそも森を出たところで人に会えるとも、もし人に会えたとしても助けてくれるとは限らない。

はばかる人目がないためか、ためらいなくパンプスとストッキングを脱ぎ、女はまとめてリュックに押し込んだ。森での生き方など知らないが、植物は太陽の動きに沿って東西に分布しているのではないかと根拠もなく考える。
問題は北か、南か。
それについてはこれっぽっちも納得できるような考えも浮かばなくて、頭を抱える。木の棒を倒して決めるかと比較的まっすぐな棒を探していると、葉の揺れる音に紛れて小さく人の声のようなものが女の耳に届いた。


「誰かいるの!?」


はっと身を起こした女は動きを止め、耳をそばだたせる。気のせいかと振り返ると、先ほどよりも大きく人の声らしいものが聞こえ、そちらに近づく。


「待って!」


足の裏に痛みを覚えつつ走る。声の聞こえる方聞こえる方へと走り続けると、地面を踏みつける足の裏にぬめりを感じ、声が聞こえなくなった時には目の前に澄んだ池があった。
人の姿はもちろん影もなく、女は濡れた地面に腰を下ろし、リュックから取り出した水筒の水を豪快に飲み干した。池の水を少し手ですくってのぞき込み、においをかいで確かめると、池の水で水筒を満たし、栓をする。

わずかではあったが、聞こえたのは確かに人の声だったと己を鼓舞し、暗くなっていく森への恐怖を打ち消そうとするが、改善されない状況や不安が確実に女の心を蝕んでいく。


「もう・・・誰か助けて・・・」


なぜ、どうして。

そもそもここはどこなのか。安全なのか。この水は飲めるのか。食べられるようなものはあるのか、助けは来るのか。

不安や恐怖、誘うような姿のない声に怯え、女は極限状態でかろうじて森での生活に適応し、約三週間もの間、たった一人で森をさまよい続けた。










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