PLAYS

□《僕らの街で》
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 見も知らなかった兄が会社を継がないと言って一度も足を踏み入れたことのない家を飛び出した日から、俺の生活は一変した。
 はじめは、黒塗りのリムジンだった。細長い鯨のようなその車はいかにも貧相なアパートの前に止まっただけでも近所中の注目を集め、母が15年ぶりに会った、テレビでもよく見掛けるところの貿易会社の取締役であるところの父を殴り飛ばしたことで、彼女はそのアパートにはいられなくなってしまった。
 が彼女が父の頬を見事に鬱血させたところで俺の命運は変わらなかった。息子を差し出さねば付き纏うぞと、ようやっとの思いで見つけた次のアパートに現われたこわもての男たちの中のリーダー格が言った。
 俺は、生まれてはじめて、母親とひき離された(小中と修学旅行は行けるだけの金を積み立てることが出来なかった)。
 母代わりに与えられたのは、今までに住んだことのあるどのアパートの部屋よりも広い自室と、絹のような滑らかさを持った肌触りの制服、永遠に使い切れないように思われた額の小遣い、そして、ひとりの美しいメイドだった。
 俺より年上らしいそのひとは、自分は急ごしらえのバイトなのだと笑った。そして、俺を「ご主人様」と明らかに面白がるような口調で、女にしては低いが男にしては高い不思議な声で呼んだ。
 それ以外には、何も、なかった。
 俺は毎日受験をしなかった高校に通い、誰とも話さずに、放課後はまっすぐ自室に戻った。余りに大きな額の金は俺を戸惑わせるだけだった。今思えば、人生でも一番多く勉強した期間だったんだろう。することもなく机に齧り付いていた背中を見たメイドが使った「鬼気迫る」という表現に思わず苦笑した。
 だって、本当は勉強でなくてもよかったのだ。ただ俺が遊び方を知らない程に幼かったというだけで、もしも酒や煙草やギャンブルを知っていたとすれば確実に溺れたことだろう。だが俺はどれも知らなかったので疑問も持たずましてや財産目当てで近付く女の陰にさえ気付かず、ひたすらに、学んだ。
 そうして自分の境遇を考えたとき、いろいろなものがはじめて見えてきた。例えば母との生活には何の未練も抱けなかったこと。今更会いたいとも思えなかったこと。付かず離れずの新しい場所の距離感がとても気持ちいいこと。俺は少しずつ周りに慣れていき。周りもまた少しずつ、俺に慣らされていった。
 本当に?と尋ねたメイド(そのころには何故か敬語を使われることもなくなった)に、確信を込めて頷いた。
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