PLAYS

□《そこまでの距離》
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1. 懸垂線


「蛍」
 と呼ばれて飛び出すことが近頃めっきり多くなった。沢木に向かい笑顔を作りながら、僕は欠伸を押し殺す。のんべんたらりとしているとは言っても、近頃学校にもぽつぽつ顔出しをはじめたので、あくまでも夜中心の二重生活は俄かに慌ただしくなってきた。そうして当たり前だが、あの日のキスから何も起こってはいない。驚いてしまう程毎日が平和に流れ去っていく。
「蛍ってば」
「あぁ、そうだね」
「……聞いてないんならそう言えよ」
 怒ったような口調に苦笑を浮かべ軽々しく謝る。有り難いことに沢木は今のところ僕との日常を続けてくれるつもりらしい。僕とて無論その予想に寄り掛かってキスなどという暴挙に走ったのではあるが、それはやはり有り難いことに違いなかった。
 もっともある意味、沢木の「普通」は当然だとも言える。僕はまだ彼に告白――何を言うのかは知らない――をしていない。だから彼が僕を意識するはずもない。結局一瞬の驚天動地よりも、積み重ねてきた幼馴染み同士の歴史のほうが重いのだ(ああもしかしたらこれだって当たり前なのかも)と知ったのは、一時的に菌が見えなくなった彼が日吉酒店へ僕を尋ねてきたときだった。
 あのときも、沢木は酷く何気ない口調で僕を呼んだ。彼は僕の名を呼ぶことを信じてさえいない。「蛍」という言葉は彼にとって訓練なしには使えない呼び出しの呪文ではない。生まれたての赤ん坊が呼吸をしようと啼くのと同じように、さすれば満足が得られる本能の一部だ。些か自己中心に過ぎる解釈ではあるが、僕は自分で真実の案外近くを掘り当てた感触を持っている。だからといって僕が救われることはないのだけれど。
「蛍、」
 今度は何。尋ねる前に沢木はさっさとひとり話し出す。相変わらず苦笑を浮かべ、或いは文句を言われて真面目な顔で相槌を打つ僕。上等だ。きっといいバカップルになれる。
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